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2018年12月28日 (金)

映画「駅馬車」の感想

1111111  ジョン・フォード監督の代表作というより西部劇といえばこの作品ともいうべき代名詞ともいうべき作品。ジョン・フォード的空間としか言いようのない、遙か遠くまで、見渡す限りひろがる平原を、俯瞰で見下ろすように駅馬車が走る姿。それをみただけで、見る者は、その世界に入り込んでしまう。映画冒頭の騎兵隊に守られるような駅馬車に続いて、逆光の中の騎兵隊、続けてインディアンの騎行が映し出される。この駅馬車、騎兵隊、インディアン、三つの映像だけで、見る者は物語の枠組みが想像できてしまう。これは「むかし。むかし…」ではじまる昔話のように、それだけで現実の世界を忘れて、古老の話す世界に導かれるようなものだ。
 しかし、その入った世界で語られるのは人間ドラマだ。実際、物語は駅馬車の車内や停車場の室内という閉ざされた空間の内部なのだ。そこに居合わせた種々雑多な境遇の乗客たち、彼らの車中の会話、停車場での行動から、本性が次第に明らかになってくる。例えば乗客たちの席の変化だ。最初、売春婦のダラスから離れて座っていた将校夫人のルーシーが距離を縮めていく。車外の平原がどこまでも広がっているのと対照的で、そこに閉じ込められるような車内は密度の高い空間となって、その中の乗客たちの人間関係が濃密に現われる。それは社会の縮図、一種のミクロコスモスでもある。しかも、インディアンの襲撃の脅威がひたひたと迫ってくる。インディアンは姿を現わさずに、護衛すべき騎兵隊が移ってしまったり、停車場の男達や馬が消えてしまったりと恐怖感がじわじわと高くなる(まるでヒッチコックのサスペンスのようだ)。大平原は、どこにインディアンが襲ってくるか分からない空間として駅馬車をとりまいているのだ。それは閉ざされた乗客たちの緊張感を極限まで高める。そして、インディアンの襲撃。疾走する駅馬車は、極限の状況に乗客たちを導く助走なのだ。その結果として、型破りで、善良な市民の顰蹙を買うような人間が危機のときにその人間性を発揮する一方、社会的な権威が失墜する。例えば、気障なギャンブラーのハットフィールドはインディアンに襲われて死んだ女性に自身のコートを脱いでかけてやったり、駅馬車が襲われたときに、ルーシーに自殺のための銃弾を一発残しておいてやったりする。また、飲んだくれの医者ブーンは、酔ってさえいなければ彼の腕は確かであり、ルーシーのために彼はコーヒーで必死に酔いを醒まし、見事子供を取り上げてみせる。一方、その醜悪な本性を明らかにするのが銀行家ゲイトウッドで、彼は護衛の騎兵隊が帰ってしまったことに腹を立て、怒りついでに政府が実業家に干渉しすぎ、銀行に監査に入るなどもってのほかと不満をぶちまける。しかし、それによって自分が監査を恐れている、横領の罪が露見する前に逃亡し、さらに行きがけの駄賃に着いたばかりの大金を持ち逃げしたことが見る者にわかってしまう。そんな乗客たち、敵対していた人間同士が、本来の姿を現わし、危機を共に乗り越えることで連帯する。そこに、この映画のカタルシスがあると思う。
 だから、意外に思われるかもしれないが、この映画では夜の闇と光の対比が活用されている。それが、初めて宿泊するアパッチ・ウェルズでのこと。そこでルーシーが急に産気づき、ダラスがその間ずっと彼女の看病をする。生まれた赤ん坊を抱くダラスが聖母マリアのように見える。その一連のダラスの振る舞いを見てリンゴーは、ダラスが自分の伴侶にふさわしい女性と確信する。この場面が夜に設定されている。ここで、このシーンは仰角気味のカメラアングルで、人々の影を黒々と河辺に投影し、これまでの場面と打って変わった深々と暗い空間を演出する。その暗い空間は、無論赤ん坊が無事に生まれたのかという不安を書きたてるものであるが、それ以上に、このことを機に心を一つにする乗客たちの間の、そしてとりわけダラスとリンゴーの親密さを醸成する。赤ん坊が生まれた後、ダラスとリンゴーは二人、狭く、暗い、遠近法で奥へと抜ける廊下を通って月明かり射す中庭に出るのだが、それは暗い過去を通り過ぎ、明るい場所へ出ようとする二人の未来を象徴している。

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