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2018年12月12日 (水)

映画「東京物語」の感想

200pxtokyo_monogatari_poster_2  小津安二郎の代表作。いわゆる小津スタイルの完成された姿と称える人も少なくない古典的な名作。しかし、「晩春」や「麦秋」といった以前の作品にあったような、ややもするとそのスタイルから逸脱してしまうような突出した細部、つまり破綻が見られない作品ということだ。それは、前作までとは作品の性質の方向性が変っているからと考えられる。「晩春」や「麦秋」は欠落を抱えた家族が娘の結婚という未来が開けたことで新たな方向に再生していこうとする話。あるいは「宗方姉妹」は田中絹代の若妻が夫の死を契機に旧い因習を脱して自立していく話。つまり、これまでの作品はある部分は滅失するところがあっても、新たな展開の可能性がひらけるという話だった。そういう将来というのは、やってみないと分からない未知な部分が多い。それを反映してか、いわゆる小津調のスタイルの映像をはみ出してしまう部分があった。例えば、「晩春」の唐突に映し出される壺とか、「麦秋」の話の展開と無関係に一面の麦畑の映像が映し出されるとか。
 これら対して「東京物語」は東山千栄子の老妻が亡くなる以外には、家族の変化はない話で、それ以前の作品にあった新たな展開の可能性がない。未来が開けていない。つまり、いまあるものがなくなってしまう話だ。ないものをあるという話なら、あるという動きを映像にできるが、なくなる話では、なくなる前のあるということを示して、そのあったものがないという結果を示すしかない。例えば、笠智衆と東山千栄子の老夫婦が同じ方向に並んで座るのを横向きで捉えた場面を、最初の尾道での旅行の準備、長男宅で、長女宅で、熱海の旅館、海岸、上野の寺と同じ構成で場所を変えた場面を何度も映し出す。それは、最後の東山千栄子が亡くなって、残された笠智衆が尾道の自宅で独りで座っている姿と対比させるためと言える。(なくなってしまうことが分かっていて、いまあるものを映し出しているゆえに、叙情的になるのだ)それゆえに、「東京物語」は、なくなる前のあるという状態を見る者に示す。それはいまあるものの確認ということになるので、「晩春」などの作品にあった未知の部分がない。したがって、小津調からはみ出てしまう要素は必要なくなる。その結果、スタティックで安定した画面となる。それが小津調の完成されたと言われる由縁ではないか。そういう先がないからこそ調和した完成されたものと見える。それはまるで、「ファウスト」の中の「時よ止まれ、君は美しい」という悪魔の言葉を体現しているような世界ではないか。
 でも、言い換えれば、それはデッドエンドということではないか。それが証拠に小津は、この後方向性を変えてしまって、これに類するような作品を撮っていない。

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