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2018年12月 5日 (水)

生誕100年 いわさきちひろ。絵描きです(4)~Ⅲ.私は、豹変しながらいろいろとあくせくします

Iwasakiago_2  フロアが変わって、2階に降りると、おなじみになっている絵が登場します。ここからは作品の魅力に分析的に迫るということで多くの人々に抱かれている定型の印象をより細密にするべく、画面に凝らされた技術に焦点を当て、特にこのコーナーでは「線」の現れ方に注目すると説明されていました。
 いわさきは、同じようなものを対象として作品を描いていたわけですが、その描くたびに様々な描き方のバリエィションを試みます。鉛筆、パステル、インク、墨、水彩などなど。その手法の特徴を活用して、かつ印刷されることを前提に、印刷された際に、その効果が最大限になるように考え抜かれていたと言います。そこで「線」です。60年代半ばのころの水彩は、彩色もしっかりしていて、子どもたちの輪郭や細部も明瞭に描かれています。それから徐々に余白を多く残して、その余韻を効果的に使う画面構成を獲得していきます。そこで活きるのが線です。鉛筆の強弱やかすれ、パステルの線の太さや力の強弱やぼかし、にじみなど質感、インクや墨の多彩な線の技巧、それらが縦横に、的確に対象の形をつくったり省略を可能にし、子どもや少女の像を印象的に浮かび上がらせます。
Iwasakihat_2  「あごに手を置く少女」というパステル画。典型的な、この人の少女像という印象なのですが、シンプルすぎるというのか、必要最低限などと言いますが、例えば、Ⅱのコーナーで見た「ほおづえをつく男」と比べて見てください。同じポーズの人物を描いているのに、「あごに手を置く少女」で引かれている線は「ほおづえをつく男」の1割にも満たないのではないか。例えば、少女の顔の下半分は輪郭が省略されています。「あごに手を置く少女」のあごが省略されているんです。手にしても指らしきものが一部だけ描かれている。最低限にも満たない線です。それでも、見る者に顔を想像させてしまう。その見事さ。そして、その数少ない線が、それぞれ皆違う線になっている。それだけ、一本の線に集中しているのでしょう。おそらく、こんな芸当のできる画家はいわさき以外にいないのではないか。「帽子の少女」は少しだけ線が増えますが、それだって超シンプル。
Iwasakidrowing_2  「絵をかく女の子」ではパステルを使っていますが、このパステルの線が色による使い分けと、力加減で一本の線が変化していくのが、またパステルの特徴を活かした線のぼかしといった技巧の使い分け。
 1967年の赤ちゃんをペンでスケッチした小さな作品が4つありましたが、まさに赤ちゃんが何ヶ月目かも描き分けるという説明も分かる。それだけすごい。しかも、ペンの線は、ここまで削るかというほどに極限まで省略されていて、さっと走り書きのように、さりげなく描かれているのです。
Iwasakitrack  この展覧会の白眉とも言える展示が絵本の中の一枚の絵がどのような経緯で出来上がっていったのが、そのイメージの試行錯誤が何枚もの習作を完成作と共に展示されていたところです。例えば『となりにきたこ』という絵本の「引越しのトラックを見つめる少女」という作品についての展示が印象的です。最初は鉛筆のモノクロームな画面であったのが、パステルによるカラーに変わります。モノクロからカラーへ変更になったということは色が必要なったのか、どうしてか。と同時に画面の構成や細部も変更が加えられていきます。落書きのある壁のそばで引っ越してきたトラックをIwasakidrowing2 見つめる少女の後姿は壁にもたれて犬を連れていたり、壁に手を触れていたりだったのが、完成作では壁から少し離れて独り毅然と立っている姿になっています。これに伴って、少女がトラックに向ける視線の方向が少しずつ変化しています。その傍らのディテールでは壁の反対側から少年が覗いていたり、壁の落書き自体が変化したりと、少女とトラックそして周囲との関係が位置関係や少女の姿勢の変化によって、引越しによって新しいおとなりさんが来ることに対する少女の心理の揺らぎを何枚もの習作で、いくつも描いているのです。「落がきする子ども」では、逆に壁が色地から白地に変化し、落書きしている二人をのぞく子どもがいたり、壁の向こうの背景などが試みられていましたが、それらが完成作ではなくなってしまって、落書きそのものも、描き始めの状態になりました。おそらく、となりに引っ越してきたこどもと、引越しのトラックを見つめていた少女が二人で落書きをするという、協同作業を始めることを、二人の色がこれからついていくとか、二人に視線を集中させるために周囲のものを切り捨てたということなのでしょう。背中の少ない線だけで、少女の変化が、トラックを見つめていた時のすこし前かがみでうじうじした様子が、落書きしている少女は背筋が伸びて足もふんばっています。
Iwasakipiero  また「夕日のなかの犬と子ども」では全体の向きが習作では右から左だったのが、左から右に反転してしまいました。
 これらを見ていてると、まるで企業の新製品開発秘話を聞いているかのようです。たとえば、トイレで詰まることのないトイレットペーパーは水に融けやすい方がいい、しかし、あまり融けやすいと本来の用を為さない。その二律背反を克服するために、適度な融けやすさを求めて、様々な柔らかさのペーパーの試作を繰り返し、適度な融けやすさを探していく。いわさきの画面つくりの作業に、とても似ていると思います。その似ている点は、プロセスだけではなくて、おそらく、そのようなプロセスが可能となるというところも似ているのだと思います。というのも、トイレットペーパーの適度な融けやすさを追求するということは、トイレットペーパーというのはこういうものだという基本設定があって、そのために開発が行われるのです。いわさきの絵本の習作における様々な試行にも、その前提となる基本了解事項があると思います。それが、おそらくいわさきの描く少女のキャラクターのパターンという基本的なモチーフです。いわさきの超絶的な技巧は、このキャラクターを素材にして、見る者に想像力を働かせて、色々な思いを寄せさせるために最大限の効果を生むことに特化されていると思うからです。おそらく、ここで見た習作で試されたもののどれをとっても、画面の完成度は同Iwasakifire じ程度ではないかと思います。そこでいわさきが最終的な完成作としたのは、トイレットペーパーとして適度な融けやすさかといったような仕様基準をクリアしているかどうか、ということで、いってみれば絵として完結した完成度ではなくて、その機能性を追求している。その点を冷徹に追求して脇目も振らないところに、いわさきという作家の凄みがあると思います。この習作の展示は、その凄みを垣間見せてくれるもので、とても印象的でした。
 アンデルセンの『絵のない絵本』のための描いたものから「墓地に腰をおろす道化」です。いわさきが、いつものパターンのキャラクター以外のものについても、鉛筆と墨だけのモノクロームの画像で、この人のデッサン力が尋常でないことを示しています。
Iwasakifire2  いわさき、もうひとつの代名詞のようになっている戦争と子どもをテーマにして描いたものから、これらは基本的に鉛筆と墨または水彩のモノクロームで描かれますが、かすれた線と滲みの効果を最大限に活用しています。例えば、「焔のなかの母と子」では母親の怒りと恐怖の表情と子どもの無垢な表情の対照が見る者に痛みとして突き刺さってくるようです。また、「焼け跡の姉弟」では画面の大半を墨で塗り潰すようにして、姉弟の絶望的な状況だけでなく、二人の内面の不安や恐怖を浮き上がらせています。

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