無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 映画「東京物語」の感想 | トップページ | 生誕120年 中村忠二展 オオイナルシュウネン(2) »

2018年12月16日 (日)

生誕120年 中村忠二展 オオイナルシュウネン(1)

Nakamurapos  2018年7月25日(水)に練馬区立美術館で見てきた「生誕120年 中村忠二展 オオイナルシュウネン」の感想です。
 全世界的な異常気象のひとつなのか日本全国が40度近い猛暑に見舞われて、それが数日間続いているという日々。その暑さゆえ、日中に屋外で行動するという気になれないでいたが、外せないランチミーティングがあって、その後夕方以降に別の用事が控えている。その間、会社に戻っても往復の手間ばかりという中途半端なスケジュールになってしまった。その間をつかって立ち寄ってみた。展覧会といっても、2フロアある中の一つだけ、しかも小さい方の展示室だけという、まるで画廊のようなこじんまりとした展示で、それに相応しいような作品が並んでいた。平日で、しかも猛暑というわりには、ち
らほらと人影はありますが、静かな雰囲気でした。
 中村忠二という人については全く予備知識がないので、主催者あいさつで、この人の紹介もされているので以下に引用します。“中村忠二(1898~1975年)は、現在の兵庫県姫路市に生まれ、20歳で上京。各地を転々としながら制作を続け、晩年の20年間を練馬区貫井で過ごした作家です。1919年日本美術学校に入学しますが翌年退学、水彩連盟展や光風会、国画会に出品しながら洋画団体「歩人社」や「トアル社」などを結成し、精力的に活動を続けました。交流のあった画家・水波博の影響を受けモノタイプ(ガラスや金属に描画して紙に転写する版画技法)の研究を始め、忠二でなければできないといわれるほどの大作も生み出しました。また詩画の制作にも精力的に取り組み、『蟲たちと共に』『秋冬集』など、生前5冊の詩画集を自費出版しています。自身の絵を前に涙を流す忠二に、妻であり画家であった伴敏子がどうしたのNakamurabluesky_2 かと尋ねたところ「見ろよ、いい絵だなあ、こんないい絵が描けた時に、泣けないやつがあるかしら」と答えたといいます。切り詰めた生活の中、自身の全てをかけ、しがみつくように日々作品に取り組んだ忠二。一見強く激しい筆致を見せながらも、その繊細で叙情豊かな作品世界は、今もなお多くの人をひきつけています。2018年は生誕120年に当たり、ゆかりの地では初めての展覧会となります。初期の油彩画から、水彩画、版画、詩画まで、約80点をご紹介します。”この紹介では、あまりどのような作品を作る人なのか具体的な想像がつかないと思いますが、雰囲気としてあまり売れっ子ではなくて、しかし、生活も余裕があるというわけではないだろうところで、マイペースで制作を続けたという感じで、そんな雰囲気を漂わせる、マイナーな叙情性、いってみれば詩情とでもいう印象と、売れないだろうなと納得できてしまう画家の独りよがりっぽいヘタウマてきな天邪鬼さ抽象とをいったりきたりするような、そういう印象の作品と、大雑把な印象は、そうでしょうか。この人の最大の特徴はモノタイプという手法で、展示されている作品の半分以上はそうで、それ以外の水彩画や油絵は、ハッキリ言ってまったく印象に残っていません。面白いとか、つまらない以前のものでした。したがって、ここでは、モノタイプの作品のみを取り上げて、感想を述べていきたいと思います。
Nakamuragirl  なお、モノタイプについては主催者あいさつの中でも簡単に触れられていましたが、ガラス面などに絵の具などを塗って紙を置いて刷る版画のようなもので、版画は何度も刷れますが、モノタイプは1回しか刷れないというものです。インクを塗って乾かないうちに、紙を置いて転写するわけなので、短時間で一気呵成に描き切らなければならないこと、紙を置いて刷るわけなので描いたものと左右が反転することになる。また、いったん描いたのを紙に刷るので、例えば刷る時点で絵の具が滲んでしまったり、流れてしまったり、描いた線が潰れてしまったりといったように、描いたとおりに紙に写らない、という作者の意図とは違う画面ができてしまうという、こうやって言葉で説明しようとすると、はなはだ面倒くさい作品技法のように聞こえます。ちょっと屈折しているというか、おそらく、その屈折が中村という人が制作するときにプラスにはたらいたのでしょう。
 「青い空の下で」という作品。おそらくモノタイプの制作を始めた初期の作品でしょう。人間には見えない不思議な動物が2体、立って向き合っているのは、カップルのようにも見えなくもありません。背景は、水平線と遠近法的な消失点に向けられた線が無造作にサッサッと引かれているようです。その整っていないいい加減さが、モノタイプの手法で紙に転写された時に、その絵の具が滲んだり、かすれたり、汚れたりして、それがいい加減さの角を丸め、画面にほんわりとした雰囲気を作っています。なんとなくいい感じで、人によっては、生き生きとした生命感というかもしれないし、詩情というかもしれない、見る人が好き勝手にもっともらしい理屈をつけるでしょうが、感覚的な心地よさを生んでいる。それはどうしてなのか。
 「野の女」という作品は、「青い星の下で」と並んで展示されていましたが、この画面真んNakamuranightship 中の女とおぼしきものが、黒一色で塗り潰されて、それがそのままでなくて絵の具が滲むようにして紙に転写されているため、形の輪郭が滲んで、形の境界が潰れたようになり、また形の内側の塗り潰された絵の具が滲んでムラになったり、かすれたりしています。それによってフィルターがかけられたようになって直接的な尖った角が丸くなっているような印象です。それ以上に、一旦、描いて絵の具を塗ったものを、もう一度刷るというワンクッションをおいたことによって、作者と作品の距離感が直接的ではなくなって、自分が描いたものを一歩離れて見るというクールなスタンスが生まれているように感じられます。それは、ひとつには、このような不定形の変な形になってしまったのを、こんなもんだと突き放して諦めてしまっているような、それゆえに「野の女」であれば暗い不定形なのだけれど、どこかユーモラスな微笑ましさ感じられるのです。それ以上に、「野の女」であれば女の黒い形の顔の真ん中はポッカリと穴が空いているようだったり、「青い空の下で」では二体の立ったものの間の上方に青い線の集まった太陽のようなものが描かれています。これらは画面の中心点のようなもので、ここに作者の人物が重なるようなのです。画面の中心に自身の視点を入れて、しかも、それを転写することによって幾重にも自身の視点を顧みているのが、画面に反映している。つまり、中村は描くことで、偶然もまじえて描いている自身を鏡を重ねてみるように何重にも屈折させて顧みている。おそらく、感覚として、そうしないと見えないものに画家は気付いてしまったのではないかと想像しています。それが、へんてこな形だったり抽象のような形として表われてくるのではないか、思えるのです。
 「夜航船」という作品は、抽象といっていいと思います。水色の水面の真ん中に、白い直線で区割りされ黒い四角形で構成された幾何学的な物体が描かれています。しかし、塗りが滲んでぼんやりとして、輪郭や白い線がフリーハンドで、しかも滲んでしまっているため、幾何学的に見えません。論理的に考えたという感じがなくて、感覚的、身体的な曖昧さ、温い体温のようなものが感じられます。

« 映画「東京物語」の感想 | トップページ | 生誕120年 中村忠二展 オオイナルシュウネン(2) »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 生誕120年 中村忠二展 オオイナルシュウネン(1):

« 映画「東京物語」の感想 | トップページ | 生誕120年 中村忠二展 オオイナルシュウネン(2) »