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2018年12月 6日 (木)

生誕100年 いわさきちひろ。絵描きです(5)~Ⅳ.童画は、けっしてただの文のせつめいであってはならない

Iwasakirain  いわさきの「線」を堪能したころで(実は、もっともっと見たい)、今度はもうひとつの特徴である「色」です。ここでは、いわさきの水彩の超絶技巧を堪能できます。絵本はものがたりに挿絵がつくというのではなく、絵がすべてを物語るというもの、それをいわさきは目指していたといいます。私の個人的な好みでいうと、小さいころからそうでしたが、絵本という中途半端なものが苦手でした。物語というのは、そもそも言葉で語られるもので、例えばおばあさんが子どもに話して聞かせる昔話は、言葉で話して聞かせるもので、そこに絵など入ってくる余地はありません。言葉を聞いたり読んだりして、それで物語に入っていけるのです。そこに絵なんか挿入されても邪魔なだけです。だから、私には絵本というのは、せっかく物語の世界に入っていこうとすると、わざわざ要らぬ邪魔をされてしまう意地悪な媒体でした。では、その絵を見て物語に入っていけるかと言っても、それは出来ない。絵だけを見ていて面白いかというと、それほどのものでない。だから、絵本の絵の紙面に文字をびっしり印刷してくれたほうが、よっぽど魅力的だと思っていましたし、今でも思っています。だから、絵本というのは、物語を好むのではなくて、絵本という独特のメディアだけを楽しむ限られた世界のものだ、と思っています。子どもの情操によいらしいので、まあ勝手にすれば・・・と触らぬ神に祟りなし、と遠ざけている、というのが正直なところです。で、いわさきの絵には、私は興味がありますが、絵本は全く見る気がしません。ということで、本題に戻ります。
Iwasakirain2  『あめのひのおるすばん』という絵本の中から「子犬と雨の日と子どもたち」という作品です。雨の様子が、赤、青、黄、紫のグラデーションの縦の帯で表わされていて、しっとりとした空気までも描き出されているように感じられる淡い色彩の中で中央の少女の長靴と傘の柄、そして遠景の屋根の赤がアクセントになっています。輪郭線は消えてしまい、色の区分だけで表現される対象に、水のヴェールをかけたように色が重なっています。にじみや垂れ混ざりを自在に操ることで生まれる幻想的といっていい世界です。普通であれば、偶然に左右されるであろう技法で、ここまで精緻に描く超絶テクニックには、ひたすら驚嘆するしかありません。
Iwasakisea  「窓ガラスに絵をかく少女」では、少女と窓ガラスの部分を別々に描いて、あとで編集作業のプロセスで。それぞれの絵をトリミングして同じ絵本のページにさせてしまっています。ここでのいわさきは、たんに絵を描くだけの画家にとどまらず、絵本の紙面をまとめるために編集作業を行っています。もと現代にいわさきが生きていれば、絵を描いて、それをスキャナーで取り込んでコンピュータ上で、それを操作してデザインナーのようなことをやってしまうのではないかと想像できます。
 「海とふたりの子ども」という作品も、すごいという言いようがない作品です。青の水彩絵具のグラデーションににじみやぼかしを加えただけで、海の波や青空を表現してしまっています。しかも、水平線のようなはっきりとした線を一切使っていません。それでいて、海と空は見分けられてしまうのです。「海辺を走る少女と子犬」もそうです。
Iwasakisea2  全体として、最初の展示に閉口したのと、夏休みの子供向けなのか展示室にカーペットを敷いて寝転がって絵本を見られるようにしたり、と私のような頑迷固陋な人間からは邪魔くさいところがありましたが、この作家のテクニックには、そんなものを吹き飛ばしてしまう凄みがありました。

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