生誕100年 いわさきちひろ。絵描きです(1)
2018年8月に東京ステーションギャラリーで見てきた「生誕100年 いわさきちひろ。絵描きです。」の感想です。

ただ、この展覧会は、そういういわさきちひろについて、画家としての技術や作品を改めて見るという趣旨で、それが展覧会タイトルにあらわれている、ということで見に行きたいと思っていた。
その主催者のあいさつは明快なので引用します。“2018年、いわさきちひろ(1918~74)は生誕100年を迎えます。にじむ色彩で描かれた子どもたち、花々、そして大きく空けられた余白。絵本、挿絵、カレンダーなど、さまざまなメディアを通じてその絵は生活の隅々にまで浸透し、没後40年を超えてなお膨らみ続ける人気は今や世界に広がりつつあります。
一方で、その作品に関しては、「子ども、花、平和」などのモティーフ、あるいは「かわいい、やさしい、やわらかい」といった印象ばかりが注目されやすいようです。「いわさきちひろ、絵描きです。」――のちの伴侶と出会った際に自己紹介したちひろの言葉をタイトルに掲げる本展は、「絵描き」としてのちひろの技術や作品の背景を振り返る展覧会です。ちひろはどのような文化的座標に位置し、どのような技術を作品に凝らしたのか。新出の資料も交えた約200点の展示品を通じて作品の細部に迫り、童画家としてのちひろイメージの刷新を試みます。”しかし、最初にエレベータをおりたプロローグという一画はいわさきが使っていた手袋や帽子や持ち物が展示されていて、それに人が群がっていました。ここでちょっと落胆しました。話は脱線しますが、石原裕次郎の記念館とかデパートの浅田真央展とかいったような催しで、当人の持ち物とか衣装とか飾ってあるのを人々が喜んで見ているというのを聞いたことがありますが、そういうのか、私には何に価値があるのかわからず、石原裕次郎とか浅田真央というのは、スクリーンに映っている姿とか演技とか、あるいは競技場でスケートをしている姿に価値があるのであって、例えば衣装というのは、その演技の中で使われていて、当人の演技を引き立てているもので、そこから切り離したら、単なる布切れでしかなくて、そんなもの単独で見て何になるのか、それなら、その衣装を着て演技をしている映像をもっとよく見た方が、ずっとましなのではないか、思うのです。そういう、場所ふさぎというのか、時間の無駄のような展示はスルーして、ちょっと悪い予感がしました。帽子や手袋なら、そういうものが売っている店に行って、似たようなものを見てくればいいだけではないかと思います。どうして、そんな当たり前のことに気がつかないのでしょうか。脱線ついでに、オタクとかコレクターという人々が作品を直に手にとってみたいという気持ちは理解できますが、それ以外のグッズを手に入れようと躍起になっていて、その成果を自慢げに見せようとする、例えばスターウォーズの映画が好きだという人がそのフィギュアを沢山集めてレア物とかを自慢している、それと映画と何の関係があるのか、私には意味不明なのです。そのフィギュアをつかって自分なりのスターウォーズを制作しようとかいうのなら多少は理解できます。
いわさき(一般的には、この作家を呼ぶ場合には“いわさきちひろ”とか“ちひろ”といった呼び方をするようですが、それがとくに商標となっているわけ(例えば“雪舟”というような場合)ではないので、私の通例、例えば、画家を指す場合には、“モネ”とか“ルーベンス”といったようにラストネームで呼んでいるので、それに統一させたほうが混乱しないので、この作家も呼び方もラストネームの“いわさき”としています)の作品は、そういう扱い方をされやすい傾向にあると思います。そうでなくて、作品そのものを見ようというのが、この展覧会の趣旨ではないか。私は誤解しているのでしょうか。
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