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2018年12月17日 (月)

生誕120年 中村忠二展 オオイナルシュウネン(2)

Nakamuranightlake  「夜の沼」という作品。夜の漆黒なのでしょうけれど、これが塗った黒い絵の具を紙に転写しているためか、全体に画面はにじみなどのムラがでて、薄ぼんやりとした感じになっています。満天の星に流れ星が混じっているものだとは想像できるのですが、そんな細かい描き方をしていません。水色の点(が転写のときに滲んで大きくひろがってぼんやりしてしまっている)や水平な線。さして、画面の真ん中に白く太い水平の線が入っていて、それがおそらく沼ということになっているのでしょう。しかし、流れ星の水平の線と沼の水平の線は同じように滲んでぼんやりしています。ただし、沼の線は画面を横に切断するように、端から端まで通っています。その沼の水平の線と直交するように横長の画面の真ん中にこけしの形の人影が垂直にあります。立ち尽くして佇んでいるようなさまは、その漆黒でカラフルな星が散りばめられた中に独りというのが際立っています。まるで、取り残されているかのようです。それがぼんやりとした独特の画面の調子のなかで、Nakamuradoor 現実の風景とも、作者の幻想、心象風景とも、どちらともいえない、どちらにも見えます。それは、おそらく写実的な目で客観的に見ているのでもなく、内心の感情や心持ちを映し出してるでもなく、自身の姿を幽体分離して自身で外側から他人事のように眺めているような外形を表面的に嘗めるにとどまっているのでもなく、見通す意志はあるけれど醒めているのです。それは、一旦描いたのを、紙に転写するという回避的な手法を経ることによって、自身を迂回して眺める屈折がそうさせていると思います。だから、ここの独りでいる姿は、ただ独りで坦々としているのです。重くも、暗くもない。それがかえって、この宇宙に独りという絶対的な感じを持たさせられる、そういう作品になっていると思います。
 おそらく、「夜の沼」あたりで、画家自身は、それまでの作品に潜在的だった自己の影に気付いたのではないかと思います。独りでいる自身の姿を意識的に画面の中に入れ込んで、それを中心とするようになっていきます。それ以前は、例えば「野の女」では顔の真ん中を空洞にしたり、「青い空の下で」では中心に太陽のようなものを書き入れたりして、間接的に自身を仄めかしていた、それはおそらく画家自身は意識的にやっていたのではないと思います。「扉」という作品です。真ん中に人影があります。しかも、扉という題材と独りの自身がオーバーラップして、扉が左右に開くことが、自身が左右に分裂してしまうことが重なっているように見えます。扉は白い線で何重にも枠が描かれていて、それは、自身の姿のまわりに何重にも設けられた枠、それは内側にでもあると外側にでもあるし、そういうものを連想させもします。左右のとびらの中央は半透明のすりガラスになっていて、向こう側の自身の姿が透けて見える。間接的に見えているというわけです。そういう題材のフィルターがかけられているのと、描く手法がフィルターをかけて画面に定着させていくのと重なっているかのようです。そのフィルターという屈折が、リアルに見えているのでもなく、内心に映っているのでもない、具象でもない、抽象でもない、迂回して迂回した挙句のものという、この人だけの世界を創っていると思います。
Nakamuraunknown  自身の独りの姿が画面で意識されてくるにつれて、それ以外の景色とか物体といった要素が後退して、そこのところは抽象的になっていって、二本の水平線に挟まれて斜線が並ぶように引かれるという模様のようなパターンが執拗に描かれる抽象的なものになっていきます。それは、まるで斜線を繰り返し引くことに意味があるかのような、また、その緒戦が不揃いで偶然に左右されて変化していく模様はミニマルな反復のようなところもあります。しかし、これは、以前の「青い空の下で」では二体の向き合った生き物の背景に水平線と斜線を無造作に何本も引いたことからずっと発展してきたものだろうから、中村は一貫してこのパターンをつかってきて、ここにきて意識的に前面に出すように、しかも精緻にやっているといえると思います。たとえば「不詳(人と蝉)」という作品がそうです。中心である一人でいる人の姿は輪郭線だけになって、ただ頭の中央に蝉がいて、背景の模様のようなパターンと赤く着色された四角形で画面は満たされている。それだけ、人を境目とした外形の世界と内面の世界との区別が意味がないものとなってきているかのようです。両方の世界が通底してしまって、そこをつないでいた自身が相対的に透明になってきた。そう通底してきた世界は、斜線のパターンになっているという。そこには何も意味のあるものが描かれていない。そは、自身の拡散ともみることも可能でしょうか。ただ、それが、そういう図式的な解釈にとどまるものでなくて、そこでしみじみできてしまうのです。それがこの画面全体の調子で、それがこの画面の一番のキーポイントとなっている。ここでは、頭で考えるのもいいが、生身で感覚としてそれを実感できてしまうのです。
 これ以外に、たくさんの詩画が展示されていました。ちょっとした抽象風の絵と、いくつかの言葉が散りばめられていて、親しみ易いものとなっています。

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