ルーベンス展─バロックの誕生(5)~Ⅲ.英雄としての聖人たち─宗教画とバロック(2)
ここから、フロアが変わって階段を降りて地下倉庫みたいな広い展示室では、圧巻の展示が、あきらかに、今回のクライマックスといっていい、大作が9点、それらの宗教画の大画面に圧倒されました。ルーベンスの本領の一端を、ここで見ることができたと思います。ヨーロッパの教会に展示されている大作は、おそらく、もっと迫真ですごいことは想像できますが、その一端にでもふれることができたのではないかと思いました。


ヨーロッパのキリスト教社会において中世、近代を通して、光というのは単なる自然現象のひとつであることに留まらず、“神の御業”、つまり神の霊的な力が目に見える形で顕現したものとして捉えられていたと言います。光は自然に存在する物体の様々な運動を引き起こす力であり、人間が知解できる第一の形象であり、人間の知識を可能にする神の照明であったといいます、光はまた、そこかに善が流れ出す泉でもあった。これを合理的、つまり数学的に追究しようとしたのが光学と言われる学問で、それは、ルネサンスの時代には遠近法と言われていたといいます。当時の遠近法の学者であるグローテストという人は、宇宙に存在する物体はそれ自身の明確な形象を光線の形で発すると主張していたそうです。こじ付けかもしれませんが、ルネサンスの絵画が遠近法で画面を構成していたのは、単に画面を立体的にするだけではなくて、神の御業である光を、ルネサンスの合理的思考に基づいて、画面に表わそうとしたものだったと言えるかもしれません。それを、もっと直接的に、見る者の感性に訴えるようになったのは、カラヴァッジョをはじめとして光と影の強烈なコントラストで劇的な効果を画面に生んだ絵画で、おそらくカトリックとプロテスタントの宗教対立で、民衆レベルでの支持を集めていくために扇情的ともいえるような直接的で刺激に富んだものが求められたためかもしれません。いずれにしても、光というのは特別なものとして、あった。ルーベンスも、その点では例外ではなくて、しかし、カラヴァッジョの後の世代にあって、カラヴァジョが光と影のコントラストをあざといほどに強調するために密室のように空間を閉じて凝縮させたり、エル・グレコやティントレットのように画面全体を暗くして光が際立つように、といった画面全体が暗くなってしまうことがありません。ルーベンスの作品は明るく開放感に満たされています。そこでカラヴァジョ以来の光の強調もされているのです。それは、ルーベンスという人が画面全体の空間構成に独特な才能を発揮したからではないかと思います。それが「法悦のマグダラのマリア」の画面上半分の空間ではないかと思います。また、「天使に治療される聖セバスティアヌス」では聖セバスティアヌスに画面左から光が当たっていますが、彼は右側に俯いているのです。一方、ヴーエの「聖イレネに治療される聖セバスティアヌス」では聖セバスティアヌスは上を向いて、上方からの光を全身で迎えています。「法悦のマグダラのマリア」の場合は、失神していますから、本人の意志は光に向いていない。ルーベンスの場合は、光を迎える主人公の方が一筋縄ではないのです。そういう構図上の複雑さが、独特な空間構成とあいまって、単純でない光によるドラマをつくっているのです。
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