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2019年1月 8日 (火)

ルーベンス展─バロックの誕生(5)~Ⅲ.英雄としての聖人たち─宗教画とバロック(2)

 ここから、フロアが変わって階段を降りて地下倉庫みたいな広い展示室では、圧巻の展示が、あきらかに、今回のクライマックスといっていい、大作が9点、それらの宗教画の大画面に圧倒されました。ルーベンスの本領の一端を、ここで見ることができたと思います。ヨーロッパの教会に展示されている大作は、おそらく、もっと迫真ですごいことは想像できますが、その一端にでもふれることができたのではないかと思いました。
Rubence2018maria  そのひとつ「法悦のマグダラのマリア」という作品。3×2.2mの大画面で、それを見上げるように展示されていました。頭を後方に向けて微動だにせず、恍惚の眼差しを天上に向け、青白い手足からは力が抜け、髪はほどけている。法悦により失神したマグダラのマリアの姿です。これと同じようなマグダラのマリアを描いているのがカラヴァッジョでした(一昨年の、同じ西洋美術館のこの部屋で見ました。)。しかし、カラヴァジョの場合には、マグダラのマリアだけが描かれて、彼女の法悦の姿に注目した作品でした。これに対して、このルーベンスの作品は、おそらくカラヴァジョを参考にしているのでしょうが、マリアの上方の空間を大きくとって、そこから光が降りてきてマリアを照らし出すという画面になっています。ちょっとカラヴァジョの作品を思い出してみると、暗闇の中でマリアの姿が浮かび上がっています。しかし、そこに輝かしさはなくて、闇にとり込まれてしまいそうな雰囲気すら漂っています。髪の毛などは闇にとけ込んで見えなくなってしまっているかのようです。マリアの顔に精気が見えず、顔から首そして胸元まで露出している肌が土気色で、死体と区別できません。顔を見れば白目を剥いて、口は半開きになって締りがありません。そのマリアに対して、下の顎の方から見上げるように光が当てられ、下顎などの顔の下半分ははっきり見えますが、表情のポイントとなる目やその周辺がある上半分は影になって(暗闇に紛れて)しまっています。それだけに、明確に表情が読み取れず、しかも、半開きの口が目立ち、呆けているのか、意識がないのか、という感じがします。この画面にいる女性は、聖人には見えません。カラヴァジョが描いたのは娼婦という罪深い人間です。いくら悔悛したと言っても、外見が変わってしまうわけではありません。マグダラのマリアが悔悛したのは、本人の問題で、それを傍から見てCaravaggiomaria も、本人ではないので、娼婦以外の何ものでもありません。それをまず、キッチリ描いた。しかし、娼婦でずっといたのを、簡単に悔悛できるものではないでしょう。それは、今までの自分の行き方を否定することでもあるはずです。普通に過ごしていれば、そのようなことは考えもしないし、やらない。だから尋常ではないのです。それこそ、生まれ変わるようなことではないかと思います。悔悛などと言葉にするのは簡単ですが、これまでの自分を否定するということは、以前の自分を殺してしまうことと同じで、これまでの自分の死とそこから生まれ変わる、つまり再生ということ。これは、イエスがいちど、磔になって死んだあと、復活することとパラレルと見ることもできるのではないか。カラヴァッジョはピエタの画面を視野に入れながら、マグダラのマリアの画面を考えたのではないかと思うのです。そして、マリアの呆けたような顔の表情を法悦として、ここに生死の境目にいる脱自的な状態、ある意味では仮死状態のようなものです、で描いている。つまり、悔悛し、まさにマグダラのマリアが法悦状態にあって、今までの自分が死んで、新たに再生しようしている瞬間を、一人の娼婦の現実の姿として描いた。そういう作品ですから、輝かしさは必要ないし、天使もいない。これはマグダラのマリアという人間の転回のドラマなのです。しかし、それでは教会を訪れる多くの人々にとって分かり易いとは言えない。そこで、カラヴァジョの描いたマグダラのマリアの内心のドラマを、もっと多くの人々にとって分かり易いものとするにはどうしたらよいか。ルーベンスは、カラヴァジョがマリアのみを画面に、彼女の内面のドラマとして描いたのを、広い空間に置き換えて、マリアの内面にドラマに対して、より広い視野で、それを見守る神の視点を画面に加えた。それは、単にマリアを神が祝福した輝かしいというものではなくて、マリア自身はカラヴァジョが描いてみせた姿と同じように死と再生というギリギリのところで改心した姿なのです。そこにはるか上方から光が差してくる。カラヴァッジョの場合には、闇から彼女の姿が浮かび上がるのですが、ルーベンスは光に照らし出されます。それによって、マリアの転回を人々に広く知らしめ、神がそれを見守っているということをそこで暗に示している。それが、ここの展示室では作品を見上げるよう展示されていましたから、マリアに注がれる、光を見ている者も浴びるような錯覚に捉われる。つまり、この作品の隠された主題は上方からの光で、それは、マグダラのマリアのようなかつて娼婦であった人に注がれている、それが見ているものにも降り注ぐような錯覚にとらわれる。そういう作品になっているのではないか。
 ヨーロッパのキリスト教社会において中世、近代を通して、光というのは単なる自然現象のひとつであることに留まらず、“神の御業”、つまり神の霊的な力が目に見える形で顕現したものとして捉えられていたと言います。光は自然に存在する物体の様々な運動を引き起こす力であり、人間が知解できる第一の形象であり、人間の知識を可能にする神の照明であったといいます、光はまた、そこかに善が流れ出す泉でもあった。これを合理的、つまり数学的に追究しようとしたのが光学と言われる学問で、それは、ルネサンスの時代には遠近法と言われていたといいます。当時の遠近法の学者であるグローテストという人は、宇宙に存在する物体はそれ自身の明確な形象を光線の形で発すると主張していたそうです。こじ付けかもしれませんが、ルネサンスの絵画が遠近法で画面を構成していたのは、単に画面を立体的にするだけではなくて、神の御業である光を、ルネサンスの合理的思考に基づいて、画面に表わそうとしたものだったと言えるかもしれません。それを、もっと直接的に、見る者の感性に訴えるようになったのは、カラヴァッジョをはじめとして光と影の強烈なコントラストで劇的な効果を画面に生んだ絵画で、おそらくカトリックとプロテスタントの宗教対立で、民衆レベルでの支持を集めていくために扇情的ともいえるような直接的で刺激に富んだものが求められたためかもしれません。いずれにしても、光というのは特別なものとして、あった。ルーベンスも、その点では例外ではなくて、しかし、カラヴァッジョの後の世代にあって、カラヴァジョが光と影のコントラストをあざといほどに強調するために密室のように空間を閉じて凝縮させたり、エル・グレコやティントレットのように画面全体を暗くして光が際立つように、といった画面全体が暗くなってしまうことがありません。ルーベンスの作品は明るく開放感に満たされています。そこでカラヴァジョ以来の光の強調もされているのです。それは、ルーベンスという人が画面全体の空間構成に独特な才能を発揮したからではないかと思います。それが「法悦のマグダラのマリア」の画面上半分の空間ではないかと思います。また、「天使に治療される聖セバスティアヌス」では聖セバスティアヌスに画面左から光が当たっていますが、彼は右側に俯いているのです。一方、ヴーエの「聖イレネに治療される聖セバスティアヌス」では聖セバスティアヌスは上を向いて、上方からの光を全身で迎えています。「法悦のマグダラのマリア」の場合は、失神していますから、本人の意志は光に向いていない。ルーベンスの場合は、光を迎える主人公の方が一筋縄ではないのです。そういう構図上の複雑さが、独特な空間構成とあいまって、単純でない光によるドラマをつくっているのです。

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