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2019年1月14日 (月)

ルーベンス展─バロックの誕生(10)~Ⅵ.絵筆の熱狂(2)

Rubence2018paeton  「パエトンの墜落」という作品。これも大きくない。しかし、この決して大きくはない画面に馬と人が入り乱れて、ひっくり返ったりして、上か下か分からなくなってしまうようなあり様を、まとまって収めているのが凄い構成力だと思います。ギリシャ神話で、パエトンは太陽神アポロンの若き息子でありながら父を知らず人の子として育ちます。ある時、真実を知り、放り出した父の罪悪感に訴えて、太陽神の戦車を駆る許可を求めます。息子では戦車を操ることはできないと確信する父は説得を試みるが失敗します。パエトンは日々世界を照らす戦車(ギリシャ神話では太陽神アポロンが、この戦車を走らせるのが昼間の太陽の軌道の動きなのです)に乗り込むものの、すぐに制御できなくなってしまう。そこで、暴走から世界を守るため、ユピテルが雷電を投げつけ、若者は命を落とす。その劇的な場面を描いた作品です。画面では、転覆した戦車から人々(戦車を御すパエトンとホラたち)が宙に投げ出され、パエトンが真っ逆さまに堕ちていき、ある者は雲にしがみつこうとしています。その人物と動物の体勢Caravaggio2016final は驚くほど多様です。しかも、その様子はポーズ過剰といえるほどで、マンガチックなほどわざとらしい。それらの人物や馬、馬車などのすべての要素が渾沌状態のようでありながら、太陽の光へと渦を巻いて上昇し、さらには下方へと落下する動きに統合されるように配置され、一瞬の悲劇的な激しさに収斂するようになって、それが見る者に向かって画面から抜け出して迫ってくるように構成されています。つまり、これだけ渾沌としているような、極端なポーズの人や馬が入り乱れでありながら、画面右上から左下に対角線状に差す光に並ぶように配置されることで、意外なほどシンプルな構成になっているので、見る者はそれにしたがって、物語を追いかけるように見ることができるようになっているのです。それにしても、個々の人や馬の描き方を見ていると面白い。例えば、画面右上の白馬が首をひねって前足をたかく上げているポーズなど、実際にこれほど首をひねることができるのか分からないほど極端ですが、たてがみを直立させるほど逆立てている様も非現実的ですが、荒っぽい躍動感に満ちていて、瞬間を極端にデフォルメしたようなポーズです。その他の人や馬のポーズは、例えば、ミケランジェロの「最後の審判」のようにリアルな人の身体の動き以上に動作の途中の姿の一瞬を取り出して、それに演出を加え手ポージングさせたようなのに習ったような感じです。それを画面の光の線という骨格があるので、その上で個々の人や馬を大胆な実験を試みた。解説では、この作品は構図研究用の習作ではないか推測を述べていますが、筆の動きも丁寧に仕上げるというのではなくて、少し荒っぽくて、それが荒々しい躍動感を生んでいます。
Rubence2018stjohn2  「聖ゲオルギウスと竜」という作品は、展示室のなかでひときわ目立っていました。解説ではルーベンスの作というところに?が付されていて、本人の作かどうか疑問があるようです。同じ題名でプラド美術館にあるのは真作ということで有名らしいですが、後でネットで調べてみた、そのプラド美術館の作と比べると、こっちの方が大胆で破格なため、本人の作かどうか疑わしく思うのは当然と思います。両作品は構成や構図はそっくりのようですが、明らかにプラド美術館の作品の方が人や馬に動きが感じられるし、生き生きとしている。それに比べて、こっちの作品の人や馬は類型的で、それ自体にダイナミックな躍動感がなくて、パターンをなぞっているところがあります。ちょっと挿絵というかイラストっぽい感じがします。それだけに明確に何が書かれているかわかりやすくなっていると思います。自己パロディをやっているかのように、ルーベンスの画面のつくりが分かるものとなっていると思います。端的に言うと、構成はいたってシンプルで、見る者は視線をそのシンプルさに導かれるので、難しい感じはしません。その上で、画面の空間を埋め尽くすように事物を描き込んでいく。それは数量で埋め尽くす場合もあれば、個々の事物を巨大にすることで埋め尽くす場合もあります。いずれにしろボリュームで圧倒するわけです。そこに、色彩や、ここの事物の大胆なポーズで複雑で荘厳な印象を生み出す。見る者を退屈させない。そういうところが、こっちの作品はストレートに、より極端に表われていRubence2018stjohn3 ると思います。色彩は、リアルといったことを通り越して、派手で見栄えがするようになっていて、それで作品が目立っています。あるいは、中央の甲冑姿の聖ゲオルギウスの姿は、プラド美術館の作品と同じポーズですが、頭部と上半身がバランスを欠くほど大きくて極端なデフォルメが施されています。下の竜との距離が接近しすぎていて、これで騎馬での戦いができるのかというほどです。顔の部分は首がないほど上体にくっついています。しかし、それで、顔と上体の部分に見る者の視線は集まります。それだけ、聖ゲオルギウスの巨大さが、怪物を蹴落とすところも含めて際立たせられています。ルーベンスという人は、それをあからさまでなく、さり気なく、それと気付かないように施している。そういう洗練はプラド美術館の作品につよく見られると思います。そういう特徴は、ヨーロッパと遠く離れて、文化的なルーツの異なる日本では、却って分かり難いものではなかったと思います。
Rubence2018stgeorge  ルカ・ジョルダーノの「パトモス島の福音書記者聖ヨハネ」という作品は、ルーベンス以外の画家がルーベンス風に描いた作品と言えると思います。この人は、センスが洗練されていて、ルーベンスのようなゴテゴテとテンコ盛りにしたようなボリュームが感じられなくて、スッキリとした画面になっています。

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