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2019年1月16日 (水)

ゲーリー・クーパー主演、アンソニー・マン監督の映画「西部の人」の感想

000002  強盗団から足を洗って平穏な生活を送っていたかつての無法者(ゲーリー・クーパー)が、再会した昔の仲間や残忍なボス(リー・J・コッブ)との縁を切って真人間になることを目指すというストーリー。クーパー演ずる主人公は、逃れたい過去に強制的に捉われることになる。主人公の伯父に従っていた過去の姿を彷彿させる分身のような従兄弟が、彼に対して裏切り者と敵意を露わにする。つまり、否定した過去に捉われている主人公が、克服すべき過去が強盗団、とくに分身のような従兄弟(ジョン・デナー)として現実に現われ、実際に彼を捕えてしまう。そこから逃れ、彼らと対決することが、主人公にとっては内なる過去の記憶の克服と重なる。
 彼と従兄弟の対決は、撃ち合いの後それぞれクーパーは肩を、デナーは足を撃たれ、クーパーは廃屋の玄関ポーチの床に、デナーはその床下に倒れ込む。二人はポーチの床の上と下で「とうとう二人きりだな」、「お前がずっとそうなると思ってきた通りになったな」と話し、その二人を同じ画面に捉える。この敵同士を上下の構図で映すのはアンソニー・マン特有の垂直の対決構図なのだろうが、狭い空間で接触するほど両者が接近していると、彼らが対決するべくして対決する宿命性が強調される、というより、互いに分身のように見えてくる。最終的には、クーパーはデナーを殺すことで、自分の過去そのものを葬り去る。この対決は自分自身との対決であり、自分の中の悪との対決。それゆえ、戦いに勝ったクーパーは陰鬱な表情を崩さない。周囲に広がっているのはゴーストタウン。勧善懲悪とか、ノスタルジーといった西部劇のスカッとするものとは正反対。現代劇にしてしまっては、身につまされってしまうので西部劇という舞台に移すことで、かろうじて娯楽映画になっている。しかし、このような主人公を脳天気なハリウッド・スターの代表的存在ゲーリー・クーパーが演じているなんて。

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