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2019年1月 6日 (日)

小津安二郎監督の映画「早春」の感想

0343042914219632911  前作「東京物語」の2年後に公開され、「晩春」以降1年1作ペースで制作していた小津には珍しい。それほど「東京物語」というピタリとハマった作品の後で悩んだ小津の姿が想像できる。この作品と次の「東京暮色」の2作は戦後の小津調のなかでも異質な作品となっていると思う。例えば、始まってすぐに蒲田駅の朝の通勤風景のシーンがある。駅に向かって人々がまるで行進するかのように一方向に同じ歩調で歩いている。そこに異様さ、不自然さ、を感じさせられる。これは、画面について小津が美化句を徹底したためと言う人もいるが、しかし、同じようなシーンは実は「東京物語」にもあって、早朝の尾道の港の風景のあとで通学の小学生が倉庫の前を同じように歩いているのだが、そこに違和感はなく、むしろ朝の懐かしい風景として映る。それだけ、「早春」全体に、このシーンを不自然と感じさせる統一感があるということだ。そういう不自然なシーンはそれだけでなく、例えば主人公の勤め先のシーンで社名が書かれているドアを正面に廊下を置くに移動して寄って行くように撮っているのは意味がわからず不気味ですらある。しかしそういうところが、この作品の特徴的な魅力となっているのではないかと思う。
 物語は池辺良と淡島千景の倦怠期にさしかかった夫婦の危機を柱に浮気やサラリーマンの悲哀が絡む。夫婦の危機であれば、「お茶漬けの味」もそう。しかし、「早春」での小津はずっとシニカルだ。「お茶漬けの味」は、もともと出自の違いによってしっくり行っていなかった夫婦が、その違いを乗り越えていく話で、欠落を抱えていた家族が再生していくというパターンだ。これに対して「早春」の夫婦は、夫婦の間に隙間風が吹き始めて、些細なズレがうまれ、それが拡大していくという関係が崩壊していくという話。物語では最後に夫婦はヨリを戻して、一時的な別居は解決して再出発することで終わる。しかし、そこには「お茶漬けの味」の夫婦二人で深夜の台所をあさりお茶漬けを食べる長回しのワンシーンワンショットのようなポジティブな高揚はなくて、夫婦は同じフレームに収まらず、「東京物語」の笠智衆と東山千栄子の老夫婦が同じ方向を向いて並んで座ることも殆どない。「早春」では最後の最後、別居したまま転勤した池辺良の単身赴任先に、淡島千景が訪ね、下宿先の窓辺で二人が並んで外を見る。それがとってつけたように見えてしまう。それゆえ、シニカルな苦味を伴った諦念が漂う。それは、「東京物語」で完成した小津調の映像を自己パロディのように形式化した上でズラしてみせて、見るものに違和感を抱かせることによって。
「早春」が公開された1956年の経済白書には“もはや戦後ではない”と書かれ、戦後復興から高度経済成長へと時代が大きく転換し、伝統的な社会の崩壊が始まった。それまでの小津の作品では戦争で欠落を生じた家族が再生していく話だったのが、この「早春」の夫婦は欠落を抱えておらず、それが崩壊していく話に転換している。時代の変化の影響を受けたとは言わないが、小津自身の作品の転換と時期が重なったのは偶然とは思えない。そこには、小津自身が小津調と言われる映像を距離をおいて客観視し、そこでそれまで疑問すら抱いていなかった自身のアイデイテティを見直している苦味が作品に表われているように気がする。それゆえに、小津ファンとしては、とりわけ愛しい作品。

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