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2019年2月16日 (土)

ムンク展─共鳴する魂の叫び(11)~6.男と女─愛、嫉妬、別れ

 ムンクは結婚をしなかったそうですが、このコーナーはそんなムンクの女性との関係にかかわる題材の作品を集めていました。
Muncheyes  「目の中の目」という1899年ごろの油絵です。草原を背景に中央に二又の一本の樹木があって、その樹木を挟んで男女が向き合っている。このような構成は知恵の樹を伴うアダムとイブの伝統的なイメージを想わせると解説されていて、たしかに似ているところはあめと思いますが、この作品で目につくのは、全体の基調となっている緑色です。普通であれば、緑の草原を描いた作品であれば、それに落ち着きとか癒やしのようなリラックスした印象になるのですが、この作品の緑色は、不思議なというか異様な印象を残します。さMuncheyes2 らに異様なのは、手前の人物で、男性は顔面蒼白で死体のようにも見えます。目は瞳が点になっていて、虚ろというか、むしろ単なる穴です。他方の女性は、透き通っていて物質的な存在感がなくて、まるで幽霊のようです。しかも、二人とも胸から下はフェイドアウトするように背景に溶けこんでしまっているかのようです。
Munchkupid  「クピドとプシュケ」という1907年の油絵作品です。ギリシャ神話の有名なキューピッドとプシュケーのエピソードで、数多くの絵画作品がありますが、そんなことよりも、全体を平面的に色に分解してしまって、縦の色の帯のモザイクのような画面になっているのは、1910年頃のクプカの「垂直線の中のクプカ夫人」を想わせます。あるいは、当時のキュビスムの影響のようにも見えます。しかし、一説では、ムンクは、縞模様の描写で、自身のKupkasuicyuku 不安定な精神状態やそういう感情の波が周囲の空気をつくっているを表現していて、この頃、ムンクは妄想、不安、対人恐怖症、アルコール依存症などによって精神状態は限界に達していたとも言われています。この後で見る「マラーの死」では、描かれているマラーの死体はムンク自身を象徴しているとも言われています。その真偽は分かりませんが、ムンクの伝記的なエピソードからものがたりを作り出して、それをもとに解釈するのに、好都合な描き方が、このような色の帯で構成された作品ではないかと思います。何度も繰り返すようですが、ムンク本人が実際に神経症か何かで治療を受けていたのかもしれませんが、作品を見る限りでは、直接的にそういうことを見る者が読み取り易いように綿密に演出されている、計算された画面になっているように私には思えます。
Munchdeath3  「マラーの死」という1907年の油絵作品です。マラーはフランス革命のジャコバン派の指導者で、浴室で暗殺された場面を描いたダヴィッドの作品を想わせるところがあります。「クピドとプシュケ」と同じように、幅広い筆遣いで、色の帯で画面を構成しています。この作品では縦方向だけでなく横方向の縞模様で占められていて、画面全体にわたってMunchdeath4 縦横に交差して配置されたキャンバス地の白い隙間が見えています。この作品では、縦横の交差は横たわるマラーの死体と暗殺者の裸体の女性が直立する交差が十字を形作っています。それが画面に強い緊張感を作り出していると言います。でも、この画面を見ていると、そういう画面構成とかムンク自身を擬せているマラーの死体よりも。中央で直立している裸の女性が表情がなくて姿勢も不自然で、病的である感じを強く印象づけているところ。今回の展覧会では展示されていませんでしたが、ムンクの代表作である「思春期」の裸婦の少女を分解して、人間らしさを取り除いたようなものにしている。そういう作品ではないかと思います。
Munchcry  「すすり泣く裸婦」という1913年頃の油絵作品。珍しく、生々しい人間の存在感のある作品です。こういう作品も描けるのに、平面的でパズルのような作品ばかりを描いている。この作品を見ていると、ムンクと言う画家は、「叫び」のような作品を、人々の受けを計算して意図的に制作しているということが、逆説的に分かると思います。
 「生命のダンス」という1925年の作品です。場面は夏の夜の海岸で、満月に照らされて踊る人々の光景は、人生を誕生と繁殖そして死と繰り返すドラマを表わしている。それが3人の女性が象徴的に描かれていて、左の白いドレスを着た若い女性は青春の純粋さで、右手前の花の蕾に触れるために手を差しのべている。中央の赤いドレスの女性は無表情の男性を誘惑するようにダンスをしている。そして右の喪服のような黒い服を着た年配の女性は人生が終わりつつあることをあらわし、彼女はダンスを拒むかのように両手を強く握り締めている。その背後には、群衆が踊りまわっている。というように説明されていました。この頃になると、ムンクは自身Munchdance のパターンを自家薬籠中の物として、自身のイメージを拡大再生産するように作品を制作していた。下手をすると粗製乱造になりかねないが。この作品も、そういう作品の一つだと思います。とにかく、彼のセルフイメージを喚起するような仕掛けが至る所にあって、しかもあからさまなほど分かり易い。言ってみればサービス満点で、むしろファンに対する媚が見えるようです。このあたりから、ムンクの作品は陳腐化のスピードに追いつけなくなっていったと思います。それは、奇を衒ったデザインでインパクトを見る者に与えるという手法が陳腐化するのは当たり前のことで、それを目先を変えて、マーケット調査をしたかのように、人々の嗜好との微妙なズレを作り出していて延命していたのが、時代の流れに追いつかなくなったのか、自身が息切れしたのか。この後の作品は、陳腐化して、面白さを喚起するネタがすべっていくようになっていきます。
 それゆえ、この後も展示はありますが、感想を書くつもりはありません。印象に残らなかったからです。

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