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2019年3月25日 (月)

イサム・ノグチと長谷川三郎─変わるものと変わらざるもの(2)

 展示室に入ってすぐ目に入る。主催者のあいさつと並ぶように展示されていたのが、「無題」という1954年の作品です。書とも水墨画とも抽象画ともとれるような作品。抽象画としてはミロを想わせるところがあるような気もするが、ミロのような色彩に惹き付けられるところや、躍動感のようなものはなくて、ある種の融通無碍というのか、とはいえそこに静かな落ち着きのようなものが感じられるものです。最近読んだ、『抽象の力』という本の中で著者の岡崎乾二郎という人は、長谷川の作品の特徴を次のように概括していました。


Hasegawared・作品空間は、画面の物理的フレームや展示空間のフレームによって規定されない。大きさは可変的で伸縮自在である。


・作品内に、それぞれ可変的でありつつ同一性を維持する自律的構造(=自律的な空間、時間秩序)を持つ複数の形態が同時に存在する。


・それぞれの空間構造として自律した形態と形態の間は軽量化=確定できない。したがって、それを位置を確定もできない。これは日本語における「間」、さらに抽象化されて「無」という概念に翻訳され説明される。


Hasegawabutaffly 最初のコーナーは、1930年代の長谷川が東京帝国大で美術史を学んだ後、滞欧もした戦前作品が並びます。「朱」という1936年の作品です。斜めにズレて重なった二つの長方形(一つは黒い線ともう一つは赤い線で縁取られている)のまわりに輪ゴムのような不定形の輪がばら撒かれたように散りばめられ、絵の具を塗った靴底によってつけられた足跡のような不定形な横線が引かれた楕円状のものがランダムに画面上に描かれています。つまり、二つの長方形のフレームが重層的に画面にあるものの、それらを無視するように不定形に輪や足跡が、まるでフレームなど気にしないで歩き回った後のように散りばめられている。しかも輪と足跡は、それなりにそれぞれに同一性のようなものがある、つまり、それぞれが動き回った軌跡のように見えて、そこにそれぞれの形態が自律しているようなところがあります。


Hasegawamiro 「蝶の軌跡」という1937年の作品は、漂う形象の間を線が伸びているミロの抽象画を想わせる作品ですが、「朱」のスケールをより大きくなって、内容はより複雑になって、さらにリズムが生まれています。しかし、この作品のくねくね伸びる線はミロのようなか細い線ではなく、曲線だったり、節目をつくって屈曲していたり、様々なパターンです。それは、タイトルが示すとおりに蝶や昆虫が活動する軌跡を線で示しているような生き生きと躍動するところがあります。その線が長方形で囲われた不定形のアメーバのような形象の上を、ミロの線は形象の間を縫うように伸びていますが、この作品では、その形象とは違う平面にあるかのように、その間を縫ったり、形象を横断したりしています。その長方形の囲いも常に伸縮したり、歪んだり折れ曲がったりする動きがあります。そして、その形象も線もドットのような点が並んでいる面の上で動いている。その面にも赤い染みのような形が拡がっているように見えます。つまり、幾つかの異なる平面、次元とか位相といった方がいいかもしれませんが、それらの次元で線や形が、そのかたちを変えながら、それぞれに動いている。それが、相互に折り重なっている。


Hasegawaroom 長谷川は絵画だけにとどまらず、写真やコラージュの作品も残していますが、同じような姿勢が表われていると思います。「室内」という写真の作品です。畳の上にくしゃくしゃに丸められた新聞紙が転がっているという、言葉にすれば何の変哲もないと思われてしまいます。しかし、黒い縁で仕切られ、一方向に秩序正しく並んでいる畳の目は、まるでモンドリアンの幾何学的な抽象画のような平面です。そこに丸められた新聞という幾何学的な秩序とは異質な、つまり次元を異にするものが不意に投げ込まれて、安定していた秩序が動き始める、同時に異なる次元が出現する。この写真は、長谷川の不定形に動く、多層的な空間が、観念の上でつくられて作為的にキャンバスに描かれて造られるのではなくて、日常的に、身の回りに転がっているものであるということ、おそらく、それが長谷川の作品世界なのだろうと思います。それは、モンドリアンのような、観念的というのが、事物を見ていて、そこから形象という、色々と考えながら余計と思われるものを取り除いていって純粋なものを抽象するものではなくて、実際に手触りのある物体というのでしょうか実在しているものとしてある。それが作品と結びついている。


 シリーズものということなのでしょうか、「郷土誌」というタイトルで数枚の写真が展示されていましたが、シダの葉、砂、網などが切り取られるように写しとられた画面は、まるで抽象画のように見えました。

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