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2019年3月26日 (火)

イサム・ノグチと長谷川三郎─変わるものと変わらざるもの(3)

 展示室が変わって、次のコーナーは戦後になってイサム・ノグチが来日して出会ったことを契機に、その当時に製作された作品です。二人は意気投合し、日本美の本質を見極めるべく関西をはじめとて日本を旅して、古い美と出あうことにより独自の表現を生み出していく、というような説明がされていました。「交響詩霽日」という四曲の屏風に仕立てられた作品です。まるで日本画のような体裁で、そういう日本的なシブHasegawasymphonyいとか幽玄と言いたい雰囲気があります。説明にあったような古い日本に美に出会ったというストーリーを聞くとなおさら、そういう感じがしてきます。かまぼこ板を版画の版木のように彫って、それを画面にスタンプを押していくように、ランダムに押していって、画面を構成していくという手法で、マルチブロックという呼ばれる手法だそうです。その特徴として、例えば画面左のたてに伸びる棒のつながりは数本のたての線のブロックが積み重なるようになっています。そもそも、このような手法をとらずに筆をとって描けば一本にたての線をすうっと引けばできてしまうことです。そんな一筆でできてしまうことを、何個ものブロックを画面に押すことを繰り返しています。それは、一筆の一度の動きを何個ものブロックに分解、解体といった方がいいかもしれません。長谷川ではありませんが、誰だったか“絵画は一本立ての上映だが版画は二本立て” と言った人がいたそうですが、それは、版画が数本立ての絵画でありうること。すなわち出来上がった版画は見かけの一枚の画面だけてなく複数の異なる版木の重なり、まさに異なる幾つもの絵の重なりとしてあるということを意味していると思います。ということは版画というものは、おしなべてそういうものHasegawamusic なのだろうけれど、江戸時代の浮世絵版画からずっと版画はつくられてきましたが、長谷川はそういう版画の性格を意識して、それを敢えてあからさまに露呈させるようにしたのではないか。それが一本の線の解体ということにも表われている。ここでは線を例としましたが。ブロックを重ねることで形成された形もそうだと思います。それは、前のコーナーで見た初期の抽象画の作品が、異なる次元を重ねるようにして多層的に画面に表わしていたのを、それがズレとして目だっていたのを、こごては自然に見えてしまうように洗練させた、と思います。しかも、線を作っているブロックで押されたひとつひとつ棒は、それがつながって一本の線となってしまえば、それぞれの棒としては存在する意味は、そもそもなくなってしまう。そういう矛盾を内包している。それが、この作品の一見、モノクロームで、白地の部分が多くを占めて静けさの印象を与えるものの、どこか緊張感を孕んでいるように見えるのは、そういうためなのかもしれません。
Hasegawaenviremet  「環境」という作品は、「交響詩霽日」と同じようにマルチブロックの手法で制作した作品。「交響詩霽日」が屏風だったのに対して、掛け軸の体裁をとっています。その体裁なのですが、四曲の屏風という形は折り紙のように立体となって、よっつの面がずれながら不定形の立体、つまり三次元を作ります。全体として、ニ次元の平面にとどまらない存在のあり方をしています。ところが、この「環境」は体裁は純然たる二次元の平面に終始している。それは反面として、物質の存在にこだわらない。お分かりいただきにくいかもしれません。この画面を見ていると、例えば、現代音楽(こういうのは死語になっているのかもしれませんが)のジョン・ケージの図形楽譜とか竜安寺の石庭とかに似ている印象を持ちます。それは、マルチブロックの版木といった物質を押して表われた形が、つみかさねるように連続して押されると、その物質には存在しない別の次元で意味を持ち始めることと関係があるのかもしれません。楽譜もそれ自体の存在とは別の音楽という異次元の存在となって現われるものですし、石庭は石とか砂という存在とは別の意味があらわれてくる、それぞれが抽象的であって、そこに静寂Takashimadragon さが漂っている。音楽に静寂というのも矛盾していますが、ジョン・ケージの作品を聞いてみると、なぜか静寂さの印象を受けるのです、実際に。私には、「交響詩霽日」を、もっと突き詰めて純粋にしたのが「環境」ではないかと思えてきます。一本の線を筆で引くというのはどんなに細心の注意を払っても、筆の勢いとか絵の具の滲みやかすれなどの意図せぬ要素、アクシデントが加わります。それは反面では即興性ということにもつながります。これに対して、マルチブロックで線を引くということを解体してしまうと、版木を押すということは筆を使うことよりもアクシデントの要素を抑えることができます。したがって、画面に表われた棒のつながりは、計画した構成の通りに出来上がる可能性が高いものとなります。それだけ、頭で考えた、つまり抽象的なものにより近い。ちょっとデジタルの画像にも通じるようなものです。
Hasegawanature  「自然」という二曲の屏風です。かまぼこ板の版木を組み合わせたものではなくて、切り株や木片の地肌を直接紙に写し取る拓刷りという技法が用いられているといいます。“抽象的なフォルムが絶妙な余白をもって配されており、西洋的な抽象性と、東洋の伝統的な技法や空間感覚をみごとに融合させた作品”ということですが、まるでコラージュのようとも言えます。ここでの切り株や木片は、それぞれひとつの次元をもっていて、それが画面に転写されると、意味づけが転換し、それが他の転写と重ね合わされて、累積され、異なる次元が画面上で表われているそういうものが混在し、ひとつの秩序を形作っているのが自然だといわれれば、慥かにこの作品は自然を表わしているのかもしれない。私には、ここまで見てきてた長谷川の作品というのは、このように異なる次元をひとつの画面に詰め込んで、その異質なままを提出する、そういう作品として見ることができるものでした。音楽でいうと対位法的なもので、まるでバッハの「音楽の捧げもの」のような対位法の技法で、テーマが反転したり、鏡像になったりともともとの形はそのままで意味が転換されたり、組みあわせることによって違って聞こえる、そういうテクニックを駆使したもの。それを平面という限られた空間で様々に試みている。そういう作品なのに、結果として見えてきたのはシンプルな画面に仕上がっている、というものでした。それゆえ、この展覧会で、ここまでの展示がもっとも興味深かった。この後、長谷川の作品は書と見紛うようなものに変貌していきます。それは、私には画面での異なる次元の併存ということを失わせてしまったように見えて、作品に対する興味が薄れてゆきました。
 また、もう一人の展示者であるイサム・ノグチは世界的に著名な人だということですが、ほとんど見る気も起きないで、まったく印象に残っていません。

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