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2019年4月16日 (火)

デビッド・リーン監督の映画「ドクトル・ジバゴ」の感想

111111  冒頭。プロローグのような、アレック・ギネスが弟ジバゴの遺児を探してダムの工事現場を訪ねる。終業時間となって労働者が出てくるところ。巨大なダムを、吐き出される労働者の何百、何千人もの群れが埋め尽くすのを、ロングで広角のように撮っていると、まるで人の群れが風景のようになってしまう。そういう空間に圧倒されたところで、本編が始まり、シネマスコープのひろがりいっぱいの白一色の雪原。人で埋め尽くされた空間から、雪で白一色の空間に、その広がりは、映画館のシネマスコープの大きな画面では、目の前に広がる以上に、覆われてしまうような感覚となる。
 それが、この映画のドラマで、他のシーンもあるのだけれどジバゴが徴用された赤軍パルチザンから脱走して、ひとりで雪原を彷徨するするシーンは、白一色の広大な空間の中で、たった一人の人間であるジバゴをロングショットで撮っていると、小さくなって点になって雪原の白の中に融けこんで消えてしまう。人間の小さを表現しているとか、そんな悠長なことを言わせない圧倒的な空間のひろがりの美しいといかいえない、実はそれがドラマを作っている。それ以外のシーンもあるのだけれど、基本的に、人物は引き気味で、カメラが寄らない。ちっぽけな人間、その個人のチマチマした表情とか感情とかは突き放している。そこで語られるジバゴとララーの二人の恋愛。恋愛ドラマのラブシーンなんぞより、二人が画面にいるということが実は大変なことだ、とうのが画面で示されている。それは、室内の黄色いひまわりだったり、とにかく人が白い雪原に消えてしまわないのだから、二人の存在そのものが画面に映し出される。それは残酷であり、ひたむきであり、はかなく、そして美しく映った。

 

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