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2019年5月

2019年5月31日 (金)

アンソニー・マン監督、ジェームス・スチュアート主演の映画「怒りの河」の感想

111111_2 新天地を求めた農民を乗せた幌馬車隊。ジェームス・スチュワート演じる主人公は、その一行の道案内と護衛で、彼はかつて無法者であり、縛り首になりかけたことがある(彼の首には、その縄の痕跡がスカーフによって隠されていた)。彼は改心し、移住する農民たちを助け、彼らと共に新しい生活を目指そうとしていた。その途中で、かつての自分と同じように縛り首にされようとする男を発見し、助けてやる。この男はいったんは主人公と共に農民を助けるが、後に主人公を裏切り、農民たちに届けるべき越冬の食料を略奪、馬も銃も奪われた主人公は彼を追跡する。
 実は、この男はほとんど主人公の分身、さらには主人公そのものといってよいような性質のものである。少なくとも主人公にとって克服すべき過去の自己であり、それを抹殺することが、今の自分の存立を保障するような存在としてある。だから二人の対決は、互いに対峙して撃ち合うのではなく、どちらがどちらとも分からないような取っ組み合いになる。二人が最終的に対決するのは急流の中だ。主人公の分身的存在、力尽き、流されていく。主人公は、投げられた縄をつかみ、ゆっくりと岸辺に辿り着く。常時身につけていたスカーフが流され、首の傷があらわになっている。主人公を助けたのは、かつて縛り首で彼の命を奪おうとした縄だ。
 典型的な西部劇は悪い敵と対決するものだが、現実に裏切り者と対決するここで対決するのは主人公自らの過去でもある。彼の内面の葛藤そのものは見えないが、言葉の端々や、主人公の肉体の痕跡、彼が陥る悪夢、常に何かに追われているかのような異常なまでの切迫感などにあらわれている。この物語が主人の内面のドラマと裏返しになっている。

2019年5月30日 (木)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(4)~第3回講義 自己愛、あるいは「私らしさ」の発明(発見)─ルソーという自然(1)

 ルソーは大きな矛盾を抱えている、と最初に著者は断言します。そのポイントは音声言語と文字言語の見せかけの対立にあると言います。つまり、声というリアルな話し言葉と、文字化されテキストという形で読まれることで、その声の痕跡がかろうじて感じられる書き言葉との間の、反感的な共感関係、と著者は言います。生きて呼吸し、食事し、会話し、セックスをする人間ルソーの現在のあり方ではなく、事後的に発見され、文字によって隅から隅まで構築して出来上がったルソーという作品群という身体に、ルソーは自分らしい自然さを見ます。これがルソーという矛盾の基軸であり、そういう意味で彼にとって自然とは、単なる観察や学問上の対象ではなく、あるべき自然であり、同時に(彼の認識では)今もなお失われた自然を意味しています。この章のタイトルのように、自然は発見されると同時に、発明される。
 これを時間軸に置き換えて言うなら、今を生きる人間との生き生きとしたコミュニケーションではなく、過去に属する死んだ言葉とのやり取りが、彼の自己探求を方向づけるのです。というのも、ルソーにとって、愛することや同情することを含めて、およそ人間らしさを形成する感情は、はじめから直接的に与えられるものではないからです。だからこそ、死せる存在からの再生という発想が、語りを通しての自己探求の営みを特徴づけることになるのです。ルソーは『告白』の前書きを次のような言葉で始めます。
これは自然のままに、真実のすがたのままに、正確にえがかれた、唯一の人間像であって、このような存在はまたとなく、今後もおそらくないだろう。
 ところで、ジェルジ・ルカーチは『小説の理論』の中で、近代小説の特徴を古代ギリシャの叙事詩と対比させながら次のように説明しています。古代においては世界観や文化的価値観は、統一的調和を保ちつつ、共同体それぞれのメンバーに共有されていました。それに呼応する形で、叙事詩の世界では、他の登場人物と本質的な異なった、何か特別な主人公が想定されることはなく、基本的には群像劇、しかも内省よりも行動がモノをいう劇です。どう感じたか、ということ以上に、どう行動したかが問われる、それは、共同体の中では成員一人一人のなすべき役割が決まっていて、実際に行った仕事や行為の卓越性に応じて評価が上下するにせよ、行為そのもの、あるいは、生きることの意味自体が決して疑われることがないのと同じです。これに対して近代小説の成立の背後にあるのは、共有されるべき価値感が不明瞭になったという事実であり、ここで登場人物は、それまで自明視していた意味や価値からの追放というと向き合うことになります。ルカーチは「故郷喪失」という言葉を当てはめますが、近代小説の中では、一人の主人公がそのような無意味さ、世界の無根拠性を引き受けねばならない。その結果、放浪と遍歴をくり返す中で一から作り上げなければならない孤独な自己の生活史が小説の実質を形成することになります。世界は客観的にどうであるか、ということよりも、私が世界をどう感じだか、その主人公独自の感受性の内的履歴が小説の内実となる。といいます。
 ルソーのバイオグラフィーはまさしく社会が提供する様々な制度、例えば家族、教育、国家といったものからの逸脱という経験によって縁どられています。そこから彼は、自らの感受性に忠実であれというまったく新しい思想の原理を導き出しました。何よりも自分を信じ、自己を愛すること、「私」という存在のかけがえのなさを肯定すること、ここにルソーの思想の核があります。まさに、ルカーチの言う近代小説です。
 『告白』の冒頭の言葉に戻りましょう。“自然のままに”というとき、別のところで自らのnatureが自然のはめこんだ鋳型がやぶられた結果であると断言していて、そのnatureもまた事後的に、“私の書くものを読んだ後で”初めて判断できる類のものだと言っています。ルソーは、自然、ルソーという人間の生を写し取ったのが書物というのではなく、書物を読むがごとく自らの生(=自然)に関わり合うのです。著者は、その典型的なあらわれがルソーの性愛に対するスタンスだと言います。
 実生活でルソーは5人の子どもの父親となりました。しかし、彼は満足(=射精)とともに消失する性的欲望という本能に反する仕方で、性愛を実践しようとします。それは性愛の野放図な発露を抑制し、遅延させると同時に、それを蓄積し、いつでも引き出せる、これはくり返し読み返せる書き言葉のようですが、ものに変えようとします。それが自慰です。生理的欲求によって自然と湧き起こるのではなくて、心に刻まれ書き込まれた自然のイメージによって起動するのです。つまり、想像と想起によって性愛が発動する。ルソーは、これを他者との友愛関係まで広げます。具体的には、友人の過剰な干渉を、自己の空想を乱すもの、それは自らのイメージの自然への干渉として嫌います。しかし、彼のこの姿勢には屈折があります。そういう自己像をルソーは自分を真に理解し、受け入れてくれる友人に出会っていない、性愛に関していえば、真の意味で己を失うほどの快感を味わったことがない。自分は外部世界に到達したことがないので、空想の世界で理想郷をイメージするしかできていない、といいます。つまり、そういう意味でルソーは内面に閉じこもり、したがって孤独で、それを嘆いていますが、その一方でそういう嘆き自体を愛している。孤高ではないのです。友人にせよ性愛にせよ、他者は求められるのですが、ルソーはその他者からの干渉を拒みます。他者の主体を認めないのです。ですから、この場合の他者は死者と同じです。

2019年5月29日 (水)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(3)~第2回講義 告白する「私」─アウグスティヌスと「告解」という伝統

 テクノロジーのもととなる知性は、西欧的な知の営みから生まれたもので、それは最も内的なものを最も外側に導く告白制度だった。そこでキリスト教に注目します。著者はキリスト教の伝統の中で、個人の内面の真実、つまり内心は、それを見定める外部のまなざしと不可分の関係にあった。それが、人間という獣を愛し、かつ罰する神の視点です。
 そこで、アウグスティヌスの『告白』を取り上げます。この書は、アウグスティヌスが放蕩から回心に至る自らの半生を記し、人間と神との関係について述べたものです。この半生の告白を貫くのは、悔い改めという契機で、その景気の基づいた自己認識、つまり「本来の自分」の発見です。したがって、『告白』は自身の半生を写実的に出したものではないのです。下世話に言えば、今、キリスト教に帰依して本来の自分に出会った。ここまでくるのは大変だったという振り返りといったものです。それでは、日経新聞の連載されている「私の履歴書」と変わりないことになります。
 『告白』と「私の履歴書」を分かつもの、それこそが『告白』の大きな特徴であり、それは語る主体が「私」であるにもかかわらず、この「私」を本当の私にしてくれる真の主体として、神が措定されていることです。彼は繰り返し、神へと呼びかけますが、それは語りの力自体、神への応答なしには発動しえないからです。それが彼の認識です。心とは「私」の最も奥深く、外から見えず、唯一、神と神によって導かれた「私」にとってのみ一切が開示され、そこに真理が明らかになる場所である、いうことになります。これは、きわめてキリスト教的な構築物です。というのも、自分自身を見ないようにしている「私」と、「私」について最もよく知る神とが相対する契機を欠いてしまうと、もはやそれは心、こうなると魂とか精神といった方が通りやすいでしょう、ではなくなってしまうからです。最も内なる暗部が最も明るい外部へと通じ、無知(本当の自分を知らないこと)が無知としてあきらかにされ、真の知へと浄化されていく応答の場として魂というものが想定されているのです。キリスト教的にいうなら、そもそも魂は、そういう根本的な変転の可能性を含意しているものなのです。その具体的実践の記録として『告白』は記されています。アウグスティヌスは、いかにして自分の魂が荒れ果てることになったか、肉欲や異教へと引き寄せられる自らの過去を具体的に話し、それと同時に、その告白に度々挿入される聖書の言葉は、彼の語りを浄化する役割を果たしています。
 ところで、神は「私」が意のままに召喚できるものではありません。その意味で神は「私」の外部にあります。しかし、神のまなざしは、「私」のうちなる心の動きを隅々まで見守り、知り尽くしています。つまり、神の存在を内々に感じること、それは、神は実はそうとは気がつかないが、ずっと「私」の傍らにいるということで、それは自分の心のすべてが見られているという自覚と連動しています。こうなると、内と外は無関係に併存しているとは言えなくなります。ある意味では「外」(この外は通常の外部ではなく、神が傍らにいてみているところです)から見られている意識があって、初めて「内」なるものが成立する。自己の発見はそこにある。
 次に、心からの告白という場合の告白の意味について考えてゆきます。どうして告白は、個人的な確証では不十分とされ、悔い改めたという保証を世俗の承認に求める必要があるのか、です。告白が公開(言説化)されねばならないのは、アウグスティヌスの場合、自らを一人の模範的なキリスト教徒として例示し、他の人々もそれに従うということを考えている。そこには、他者を汝のごとく愛せよと説く隣人愛の問題があります。そのベースには想起という働きがある。これは人はなぜ他人の告白に引きつけられるということとも関わってくることです。他者への同情、すなわち他者とともにある情動を分かち持つことへと人々を促すのは、彼の苦しみが他人事とは思えない、という心理です。あなたの心の痛みは私の痛みというわけです。この感情はしかし、過剰におせっかいな側面も持っています。際限なく他者を巻き込んでいくエゴイズムの可能性があるわけです。話をもどしましょう。苦しみの共有というコンテクストの同一性が教団という巨大な組織の屋台骨となっていく。この共有の証しとして、そのような魂の危機を具体的に告白することが、それぞれの信者の一員であると承認されるための儀式として整備されます。
 ここで整理しておきましょう。告白行為はアウグスティヌスの場合、神の力を借りて、それまでの偽りの自分を精神という明るみに引き上げるための不可欠なプロセスです。その際に、聖書やイエス自身の言葉が、これまでの半生や日々の生活を振り返り、悔い改めの証言を行うアウグスティヌスの口吻に寄り添い、これを浄化する他者へと向かわせます。そして証言と連動する想起が、私と無関係な存在であった他者へと向かわせます。そのアウグスティヌスの影では多くの人々が告解という制度のもとで内面を語らされ、個人のプライバシーが暴露され、言説化され、神の耳目により評価され、そこに「私」という主語は付されず、教会という組織に共有され、つまり、精神的な支配下に服した。極論と著者はことわりますが、告解は、苦悩を苦悩の告白という崇高な行為へと昇華し、歓喜やカタルシスなしには通過できない言説の形式へとドラマ化する、偉大な道筋を切り開いた。後に対して、苦悩とその告白に快楽の契機が付与されることになる。
 それはフーコーが分析するように、私が自立した主体として、世間で流通する様々な価値感から自由になることは神の力を借りて清められた自らの魂の家の世話に、自己自身を従属させることによって可能になる(自己放棄の自己主張)という転倒した論理が構築されることになるわけです。

2019年5月28日 (火)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(2)~第1回講義 この愛すべき「私」という制度─世界に一つだけの花の就職活動

 著者は、朝井リョウの『何者』という小説を俎上に上げます。6人の若者の就職活動を舞台とした物語です。終盤で理香という就職活動に熱心な学生と拓人という5年生との口論がクライマックスとなります。理香は就職活動に熱心ですが内定をとれないでいます。彼女のプロフィールは「高校時代にユタに留学/この夏までマイアミに留学/言語学/国際協力/海外インターン/バックパッカー/国際教育ボランティア/世界の子供たちの教室プロジェクト参加/【美☆レディ大学】企画運営/御山祭実行委員会広報班長/建築/デザイン/現代美術/カフェ巡り/世界を舞台に働きたい/夢は見るものではなく、叶えるもの」というもので、彼女はこのプロフィールの通りの人物で、世間やマスメディアが好みそうな文化コードの羅列、それが彼女の自伝の内実で、彼女はこれを武器に会社をまわり、自分の個性を売り込みます。言ってみれば、型通りの一流の人生をなぞっている、プライドは高いが、どこか凡庸で退屈な女性です。しかし、そういう背伸びをした自己の空虚さに気づいているのは彼女自身なのです。しかし、それ以外に彼女は他の術をしらず、ただ悪あがきするだけです。それに対して拓人は理香とは正反対の現実と向き合うことから逃げて仲間の弱点や失敗をみつけて満足を得ているという、理香とは違った意味で退屈な人物です。そして、拓人が理香の悪あがきを冷笑したことが、彼女に知られて、怒りを買ったことが口論の原因です。この二人のぶつかり合い、というより理香が拓人に一方的に怒りをぶつけるのですが、彼女の怒りはありきたりで無責任な観察しかできない拓人に、ありきたりの行動しかできない彼女自身が重なるも拓人という鏡に映る自分に対する怒りに変わって行きます。
 この小説では、就職活動する若者の側を描いたもので、採用する側の人物は登場しません。それゆえに、神とはいいませんが、相手が見えず、しかし絶対的な壁のように見える会社というものに向かって、若者達が自己を認めてもらう。そのために、その会社に受け入れてもらえそうな自分らしさは、どうやったら作れるだろうか、ということを自発的に強制されている。個人的な希望をそのままぶつけても、実りある結果は得られないのは分かっています。そうであれば、相手に評価してもらえるように、自分の希望をアレンジしていく、さらに作り替えていく。
しかし、制度の残酷さは、そういった作業が実は空虚であることを当人がわかっているということです。例えば、せっかく作り上げた会社への自己アピールも、採用に落ちたら無価値になり、また別の会社にフィットするものを作り直さなければならないのです。受ける会社の数だけ、自己をそろえることになるのです。この小説は就職活動を舞台にしていますが、現代の我々の生活は、就職活動に限らず、他者に自分が認められることは人は社会生活を営んでいるわけです。一昔前の社会には、個人を安定して受け入れる制度が厳然と存在し、ことさら自己アピールしなくても居場所をあてがってもらえたのでした。しかし、現代の社会は非常に流動的で、伝統的な社会の安定がなくなっているのです。
 制度が脆弱になれば、社会のメンバーが安定して互いの価値観を認め合える共通の道徳的コードが構築しにくくなる。出会い系サイトを例に取れば、サイトが不安定なため、それに頼る個人を最後まで面倒を見ることができなくなる。差異と自体がいつ閉鎖するか分からないからです。個人は自己責任での参加となります。制約がない分情報は多様化しますが、それは同時に担い手の固定しない、非常に断片的な位置価とか与えない。そうなるとメンバーの自己主張の度合いが高くなるのとは逆に、自己肯定感は低くなります。相手が自分に注目する確率は不透明だからです。そこで、自己アピールをより効率的、効果的に行わなければという焦りが強くなり、受け易い、断片化されたマニュアルの従うような画一化の寄せ集めの傾向を帯びる。自分に注目してもらおうと、他者を誘惑すべく集められたセールス・ポイントからは、その人がどんな人生を送ってきたか、長いまなざしで個人に寄り添うためのアプローチが閉ざされてしまう。ライフストーリーには、成功体験や長所といったスペックだけでなく、失敗や挫折や短所さらには一概には価値評価し得ない様々な要素を含んでいるものです。けれども、大量の人との交流が可能になればなるほど、このような見えない経験を個人の背後に想像しようという、心の余裕は失われてゆきます。
 著者は、それを話し言葉中心から書き言葉中心に移行することが、その原因のひとつ考えているようです。他者の生に向けられるまなざしが、妙に分かり易くなる一方で断片的=質問リスト的な側面に集中するようになる。就職活動がそうであるように、膨大なデータを収集し、ふるいにかけていくような場合、データというのは量的つまり計算や計測が可能なものだから回答がすぐ出てこない経験の厚み、みえないものは、個人のライフヒストリーから外される傾向にある。データ化できないものは自伝でなくなるのです。
 このようなデータ化するテクノロジーは、学問というものが本質的にそういうものだったからではないか。

 ただ、ここで著者が取り上げている『何者』という小説を読んでいるわけではないので、大層なことはいえないが、著者による説明を読む限りでは、従来の和辻などいうペルソナとか、木村敏などの「間」ということで、人のあり方が関係があって、その結節点にすぎないということと、それほど開きがあるとは思えないので、それをことさらに取り上げても、現代的な問題としてピンと来ないところがあります。人というのは玉ねぎのようなもので、会社員としてとか親としてとか様々な顔をもっていて、そういう皮を一枚一枚はがしていくと、芯は残らず何も残らない。結局、皮だけがその人という話は昔からよくある話で、その話と基本的に違いが、私には分かり難い。それは、読み進めていくうちに分かってくるのではないかと期待してみよう。

2019年5月27日 (月)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(1)~はじめに バイオグラフィーの哲学とは何か─その立ち位置とコンセプト

 著者は、まず耳慣れないタイトルの概念の定義を明らかにしようとします。その際に、「バイオグラフィーの哲学」のうちの「哲学」を取り出そうとします。その哲学の作られ方を建築に喩えます。
 いわば哲学とは、いまだ建設中の巨大な建物であり、その建物の中に大きな部屋、小さな部屋、その建物の中に大きな部屋、古い部屋、新しい部屋などがあり、しかもそれぞれの部屋の仕切りが時代状況に応じて取っ払われたり、急に仕切りができたり、思わぬ抜け道によって距離を隔てた部屋同士が接触したり、あまり人気のない部屋があったり、住民同士が喧嘩ばかりする部屋が並んでいたりする。
そういう建物全体は計画的に作られたわけでなく、その都度増築や改築をくり返した、いわば継ぎ接ぎ構造で、哲学者は、そういう建物の住民ということになります。
 この建物の住民たる哲学者たちは、多かれ少なかれ、一つの部屋にとどまることなく、いくつもの部屋を行き来し、ときに徒党を組んで建物の改築に邁進します。そうやって、最新設備を導入する一方で、地中深く埋まっていた部屋を発掘し、再び住居可能にするなど、領域や時代を横断する活動を行っているわけです。
 このような著者による定義は、哲学の内容に踏み込んだものではなく、あり方を概観しているようなもので、この定義に当てはまるのは、何も哲学に限らず社会科学も人文化学系の学問も当てはまってしまうものです。著者としては、厳密な定義というよりは、これから展開する議論のために、このように定義しておくと便利という程度のものと考えて言いと思います。議論の中で、あるいは結論で、この定義へのフィードバックがあるわけではないので、それほど重大に考える必要はないと思います。
 一方、バイオグラフィーとは何か、直訳すれば伝記とか自伝ということになりますが、このバイオグラフィーとは何かといのは、本書のテーマといえなくもないので、簡単に定義できないのですが、最初からそんなことでは話が進まないので、auto-bio-graphyという英語に注目して、
autobiographyとは、自らの語り口でもって、自己の生活、人生を記したもの、ということになります。端的に言うなら、自分語りであり、今風にいえば、自己物語化です。
 著者は、このような営みについて哲学することをここで行ないたいといいます。
 そこから著者は自分語りについて議論を始めていきます。
 そもそもこのようなバイオグラフィーの哲学という営み、つまり、バイオグラフィーの実践とそれについての哲学的考察というのは、それ以上疑い得ない究極の存在としてのコギト(われ思う)から出発したデカルト以来の近代哲学の中心です。しかし、「私」が「私」について語り、告白するという伝統は、それ以前にないわけではありません。たとえはアウグスティヌスの『告白』。なお、同じタイトルで著作を残したのは18世紀の啓蒙思想家ルソーでした。しかし、同じ『告白』というタイトルでも告白という行為を成立させている背景、構造が違うと著者は言います。つまり、
 アウグスティヌスの場合、常に神のまなざし、神の耳を間近に感じながら告白を行います。行うというより、告白を促される、といった方が正確かもしれません。自分について語るという行為そのものが、神による要請だ、という認識をもっているわけです。他方、ルソーの場合、自己を物語化の権威となるのは、自分自身だけです。アウグスティヌスは、自分について、その隠れた内容まで見通しているのは神さまだけだ、と他律的に考えますが、ルソーにとっては、自分以上に正直かつ成果気に語れる著者などいないわけです。その意味で、告白という自律的な行為自体に「私」という存在を保証する究極の権威が帰せられる、ということになります。
 現代の、かけがえのない、世にも独自な存在としての自己への愛というのは、ルソーなどの近代のヨーロッパに始まったもので、それを当たり前と思ってしまう我々は、そういうヨーロッパの文化的慣習にどっぷりと浸かっていることの証左です。
このような近代ヨーロッパ以降当たり前となっている自己告白ですが、それが20世紀後半からさらにドラスティックな変化を経験しつつあると著者は言います。
 欲望と快楽の源泉としての自己愛が、強制と制度の源泉としての自己愛に変化しつつある、と。大胆に言うなら、現在の社会では、自分を愛せない人間、あるいはその愛の証明ができない人間は、正常ではない、とみなされるのです。
もともと自己愛というのは誰もがもっているものが、現代人はそれが肥大化している。他者を思いやることなく自己を主張する、あるいは、他者の中に自己の欲望を投影し、いわば自分の分身ばかりを愛する、そうなってしまった欲望。そういう欲望が満たされるのは、個人が所属する集団が比較的安定したものである場合です。具体的には、同質的なメンバーで形成された会社や学校などといったところでは矮小化したナルシシズムが満たされる。そこでの個人は、自分が何をしたいのか、その欲望の中身を突き詰めて考える人間というより、そこそこの自分でよい、あるいは、そういうそこそこの自分が通用する場所はどこか、まるで快適な場所をひたすら探す猫のように、自分を受け入れてくれる集団を求めてさまよう、いつまでも母親の庇護のもとから離れない子供のようなものです。
 それが典型的に現われるのが企業への新卒学生の就職活動です。まさにモラトリアムを生きていた学生たちは、就職活動という現実を前にして、そこそこの人間ではない、企業にとってかけがえのない人材であることを示さなくてはならなくなります。しかし、その人材とやらが何か、明確な答えはない。そこで、おそらくこういう人材を求めているだろうという想定に自分が見えるようにするゲームのようなもの。会社ごとに自分のパーソナリティを仮面のように付け替え、それを私として会社ごとに編集しなおしていく。これを著者は制度的に強制された自己愛と呼びます。本当の自分らしさを出せという制度的な圧力が敏感な若者にとくにあらわれやすい。
 それは就職活動に限らず社会全体がそうなってきています。個人が自らを断片化しつセルフ・プロデュースし、社会の側もそういう断片の一番良さそうな部分を摘み食いするように、情報として蓄積し、ネットワークを樹立する。こういう社会を「バイオグラフィーの社会」と呼ぶ社会学者もいるということです。そこでは、個人が様々な仕方で自分の内面を自由に表現できる社会ですが、他方では社会の側が、個人より遥かに巨大で、複雑で、巧妙なシステムで、彼の内面を引き出し、データ化し、数値化し、商品化し、消費する社会でもあるわけです。
 これを、国家という大きな視点でみたのがミシェル・フーコーのビオ・ポリティークです。近現代以前の権力は殺す権力という外敵を取り除くことが中心です、これに対して近現代の権力は外敵排除より国内整備を優先します。そこでは、生の正しい価値、つまり国民の生活の健全さ、健康な生命を維持することが国家の存立を左右するようになってくるといいます。しかし、その正しいは国家にとって都合の良いもので、個人が各々突き詰めるものではありません。こうなると、社会の側が様々な形で投げかける「君は何ものか」という問いは個々人が勝手に自分語りをするというものではなくなって、個人の精神的・身体的な内側を、知という道具に裏打ちされた制度を用いて見える化と、それに伴って各人が互いに似かよった内側になるように監視し、調査し、情報収集し、教育するという、幾重にも重なる権力装置が働いているのです。
 これを個人の側からは、自分を語るといっても、自分ではない「他なるもの=外部」に依存し、この広い意味の他者に左右され、追い立てられているわけです。著者は自伝にもこういう構造があるといいます。
 人は多かれ少なかれ、他者を巻き込み、また他者に巻き込まれながら、どこまでが自分の言葉か判然としない物語を紡ぐのです。
 例えばプライベートな悩みといっても、それが生まれるのは、個人が特定の他者と関係を築いたり、組織に属したり、意のままにならない自分と向き合ったときです。また、悩みを告白するというのは、きいてほしい相手を言葉は想定しています。そんな私に自分が足りの力を与えているのは誰なのか、という語りの基盤となる者は時代より構造変化するというのが著者の主張です。宗教がそうである時代もあれば、自然体の私がそうという時代、そういう私の自然を分解して、そういうものをつくる無意識という時代、そしてそういう自然な私を国家がコントロールしようとする時代。そして現代の実情としては、自分語りの基盤の錯綜して混乱していると著者は言います。

2019年5月 7日 (火)

フリッツ・ラング監督の映画「死刑執行人もまた死す」の感想

 111111_1 第二次世界大戦、ナチス・ドイツ占領下のプラハで「死刑執行人」の異名を持つ占領副総督ハイドリヒの暗殺事件があったのは史実。それを題材に、その戦争が終わらないうちに、ドイツ系亡命者のブレヒトが脚本を書き、ハンス・アイラーが音楽を、フリッツ・ラングが監督をした作品。それだけが理由ではないが、全編異様な緊張感が張りつめている。その展開に、ポケッとしていると置いてきぼりにされてしまう。説明的な描写を削ぎ落としたソリッドな映像は、禁欲的な美しさを湛えている。例えば、ゲシュタポに逮捕された老父とヒロインが面会するシーンは、ヒロインが待つ無機的な狭い室内に、ドアが開いて光が差し込み老父が入ってくると、その光と影のコントラストにより老父が処刑前であることを暗示させる。それで話は進んでいくが、それについての余計な説明は一切ない。それが、残された家族のやるせなさと、その家族もも同じ運命をたどるかもしれない恐怖が残ってしまう。そういうのが、最後までつづく。監督のフリッツ・ラングは見る者に全体像を明かすことをしないで、主要な登場人物の視点で画面をつくり、それぞれの視点で物語は進行するのだが、そのうちの一人の視点の映像だけを見せて(その同じ時に他の人物の視点で起きていることは見せない)、その断片を一本に繋いでいくと、観衆には見ているストーリーが途中で飛んでしまうような印象で、見る者に緊張を強いる、臨場感が半端じゃない。それが、映像そのものが緊張感を生んでいる。
 まるで抜き身の真剣のような美しさを湛えた作品だと思う。

 

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