無料ブログはココログ

« 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(2)~第1回講義 この愛すべき「私」という制度─世界に一つだけの花の就職活動 | トップページ | 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(4)~第3回講義 自己愛、あるいは「私らしさ」の発明(発見)─ルソーという自然(1) »

2019年5月29日 (水)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(3)~第2回講義 告白する「私」─アウグスティヌスと「告解」という伝統

 テクノロジーのもととなる知性は、西欧的な知の営みから生まれたもので、それは最も内的なものを最も外側に導く告白制度だった。そこでキリスト教に注目します。著者はキリスト教の伝統の中で、個人の内面の真実、つまり内心は、それを見定める外部のまなざしと不可分の関係にあった。それが、人間という獣を愛し、かつ罰する神の視点です。
 そこで、アウグスティヌスの『告白』を取り上げます。この書は、アウグスティヌスが放蕩から回心に至る自らの半生を記し、人間と神との関係について述べたものです。この半生の告白を貫くのは、悔い改めという契機で、その景気の基づいた自己認識、つまり「本来の自分」の発見です。したがって、『告白』は自身の半生を写実的に出したものではないのです。下世話に言えば、今、キリスト教に帰依して本来の自分に出会った。ここまでくるのは大変だったという振り返りといったものです。それでは、日経新聞の連載されている「私の履歴書」と変わりないことになります。
 『告白』と「私の履歴書」を分かつもの、それこそが『告白』の大きな特徴であり、それは語る主体が「私」であるにもかかわらず、この「私」を本当の私にしてくれる真の主体として、神が措定されていることです。彼は繰り返し、神へと呼びかけますが、それは語りの力自体、神への応答なしには発動しえないからです。それが彼の認識です。心とは「私」の最も奥深く、外から見えず、唯一、神と神によって導かれた「私」にとってのみ一切が開示され、そこに真理が明らかになる場所である、いうことになります。これは、きわめてキリスト教的な構築物です。というのも、自分自身を見ないようにしている「私」と、「私」について最もよく知る神とが相対する契機を欠いてしまうと、もはやそれは心、こうなると魂とか精神といった方が通りやすいでしょう、ではなくなってしまうからです。最も内なる暗部が最も明るい外部へと通じ、無知(本当の自分を知らないこと)が無知としてあきらかにされ、真の知へと浄化されていく応答の場として魂というものが想定されているのです。キリスト教的にいうなら、そもそも魂は、そういう根本的な変転の可能性を含意しているものなのです。その具体的実践の記録として『告白』は記されています。アウグスティヌスは、いかにして自分の魂が荒れ果てることになったか、肉欲や異教へと引き寄せられる自らの過去を具体的に話し、それと同時に、その告白に度々挿入される聖書の言葉は、彼の語りを浄化する役割を果たしています。
 ところで、神は「私」が意のままに召喚できるものではありません。その意味で神は「私」の外部にあります。しかし、神のまなざしは、「私」のうちなる心の動きを隅々まで見守り、知り尽くしています。つまり、神の存在を内々に感じること、それは、神は実はそうとは気がつかないが、ずっと「私」の傍らにいるということで、それは自分の心のすべてが見られているという自覚と連動しています。こうなると、内と外は無関係に併存しているとは言えなくなります。ある意味では「外」(この外は通常の外部ではなく、神が傍らにいてみているところです)から見られている意識があって、初めて「内」なるものが成立する。自己の発見はそこにある。
 次に、心からの告白という場合の告白の意味について考えてゆきます。どうして告白は、個人的な確証では不十分とされ、悔い改めたという保証を世俗の承認に求める必要があるのか、です。告白が公開(言説化)されねばならないのは、アウグスティヌスの場合、自らを一人の模範的なキリスト教徒として例示し、他の人々もそれに従うということを考えている。そこには、他者を汝のごとく愛せよと説く隣人愛の問題があります。そのベースには想起という働きがある。これは人はなぜ他人の告白に引きつけられるということとも関わってくることです。他者への同情、すなわち他者とともにある情動を分かち持つことへと人々を促すのは、彼の苦しみが他人事とは思えない、という心理です。あなたの心の痛みは私の痛みというわけです。この感情はしかし、過剰におせっかいな側面も持っています。際限なく他者を巻き込んでいくエゴイズムの可能性があるわけです。話をもどしましょう。苦しみの共有というコンテクストの同一性が教団という巨大な組織の屋台骨となっていく。この共有の証しとして、そのような魂の危機を具体的に告白することが、それぞれの信者の一員であると承認されるための儀式として整備されます。
 ここで整理しておきましょう。告白行為はアウグスティヌスの場合、神の力を借りて、それまでの偽りの自分を精神という明るみに引き上げるための不可欠なプロセスです。その際に、聖書やイエス自身の言葉が、これまでの半生や日々の生活を振り返り、悔い改めの証言を行うアウグスティヌスの口吻に寄り添い、これを浄化する他者へと向かわせます。そして証言と連動する想起が、私と無関係な存在であった他者へと向かわせます。そのアウグスティヌスの影では多くの人々が告解という制度のもとで内面を語らされ、個人のプライバシーが暴露され、言説化され、神の耳目により評価され、そこに「私」という主語は付されず、教会という組織に共有され、つまり、精神的な支配下に服した。極論と著者はことわりますが、告解は、苦悩を苦悩の告白という崇高な行為へと昇華し、歓喜やカタルシスなしには通過できない言説の形式へとドラマ化する、偉大な道筋を切り開いた。後に対して、苦悩とその告白に快楽の契機が付与されることになる。
 それはフーコーが分析するように、私が自立した主体として、世間で流通する様々な価値感から自由になることは神の力を借りて清められた自らの魂の家の世話に、自己自身を従属させることによって可能になる(自己放棄の自己主張)という転倒した論理が構築されることになるわけです。

« 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(2)~第1回講義 この愛すべき「私」という制度─世界に一つだけの花の就職活動 | トップページ | 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(4)~第3回講義 自己愛、あるいは「私らしさ」の発明(発見)─ルソーという自然(1) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(2)~第1回講義 この愛すべき「私」という制度─世界に一つだけの花の就職活動 | トップページ | 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(4)~第3回講義 自己愛、あるいは「私らしさ」の発明(発見)─ルソーという自然(1) »