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2019年5月28日 (火)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(2)~第1回講義 この愛すべき「私」という制度─世界に一つだけの花の就職活動

 著者は、朝井リョウの『何者』という小説を俎上に上げます。6人の若者の就職活動を舞台とした物語です。終盤で理香という就職活動に熱心な学生と拓人という5年生との口論がクライマックスとなります。理香は就職活動に熱心ですが内定をとれないでいます。彼女のプロフィールは「高校時代にユタに留学/この夏までマイアミに留学/言語学/国際協力/海外インターン/バックパッカー/国際教育ボランティア/世界の子供たちの教室プロジェクト参加/【美☆レディ大学】企画運営/御山祭実行委員会広報班長/建築/デザイン/現代美術/カフェ巡り/世界を舞台に働きたい/夢は見るものではなく、叶えるもの」というもので、彼女はこのプロフィールの通りの人物で、世間やマスメディアが好みそうな文化コードの羅列、それが彼女の自伝の内実で、彼女はこれを武器に会社をまわり、自分の個性を売り込みます。言ってみれば、型通りの一流の人生をなぞっている、プライドは高いが、どこか凡庸で退屈な女性です。しかし、そういう背伸びをした自己の空虚さに気づいているのは彼女自身なのです。しかし、それ以外に彼女は他の術をしらず、ただ悪あがきするだけです。それに対して拓人は理香とは正反対の現実と向き合うことから逃げて仲間の弱点や失敗をみつけて満足を得ているという、理香とは違った意味で退屈な人物です。そして、拓人が理香の悪あがきを冷笑したことが、彼女に知られて、怒りを買ったことが口論の原因です。この二人のぶつかり合い、というより理香が拓人に一方的に怒りをぶつけるのですが、彼女の怒りはありきたりで無責任な観察しかできない拓人に、ありきたりの行動しかできない彼女自身が重なるも拓人という鏡に映る自分に対する怒りに変わって行きます。
 この小説では、就職活動する若者の側を描いたもので、採用する側の人物は登場しません。それゆえに、神とはいいませんが、相手が見えず、しかし絶対的な壁のように見える会社というものに向かって、若者達が自己を認めてもらう。そのために、その会社に受け入れてもらえそうな自分らしさは、どうやったら作れるだろうか、ということを自発的に強制されている。個人的な希望をそのままぶつけても、実りある結果は得られないのは分かっています。そうであれば、相手に評価してもらえるように、自分の希望をアレンジしていく、さらに作り替えていく。
しかし、制度の残酷さは、そういった作業が実は空虚であることを当人がわかっているということです。例えば、せっかく作り上げた会社への自己アピールも、採用に落ちたら無価値になり、また別の会社にフィットするものを作り直さなければならないのです。受ける会社の数だけ、自己をそろえることになるのです。この小説は就職活動を舞台にしていますが、現代の我々の生活は、就職活動に限らず、他者に自分が認められることは人は社会生活を営んでいるわけです。一昔前の社会には、個人を安定して受け入れる制度が厳然と存在し、ことさら自己アピールしなくても居場所をあてがってもらえたのでした。しかし、現代の社会は非常に流動的で、伝統的な社会の安定がなくなっているのです。
 制度が脆弱になれば、社会のメンバーが安定して互いの価値観を認め合える共通の道徳的コードが構築しにくくなる。出会い系サイトを例に取れば、サイトが不安定なため、それに頼る個人を最後まで面倒を見ることができなくなる。差異と自体がいつ閉鎖するか分からないからです。個人は自己責任での参加となります。制約がない分情報は多様化しますが、それは同時に担い手の固定しない、非常に断片的な位置価とか与えない。そうなるとメンバーの自己主張の度合いが高くなるのとは逆に、自己肯定感は低くなります。相手が自分に注目する確率は不透明だからです。そこで、自己アピールをより効率的、効果的に行わなければという焦りが強くなり、受け易い、断片化されたマニュアルの従うような画一化の寄せ集めの傾向を帯びる。自分に注目してもらおうと、他者を誘惑すべく集められたセールス・ポイントからは、その人がどんな人生を送ってきたか、長いまなざしで個人に寄り添うためのアプローチが閉ざされてしまう。ライフストーリーには、成功体験や長所といったスペックだけでなく、失敗や挫折や短所さらには一概には価値評価し得ない様々な要素を含んでいるものです。けれども、大量の人との交流が可能になればなるほど、このような見えない経験を個人の背後に想像しようという、心の余裕は失われてゆきます。
 著者は、それを話し言葉中心から書き言葉中心に移行することが、その原因のひとつ考えているようです。他者の生に向けられるまなざしが、妙に分かり易くなる一方で断片的=質問リスト的な側面に集中するようになる。就職活動がそうであるように、膨大なデータを収集し、ふるいにかけていくような場合、データというのは量的つまり計算や計測が可能なものだから回答がすぐ出てこない経験の厚み、みえないものは、個人のライフヒストリーから外される傾向にある。データ化できないものは自伝でなくなるのです。
 このようなデータ化するテクノロジーは、学問というものが本質的にそういうものだったからではないか。

 ただ、ここで著者が取り上げている『何者』という小説を読んでいるわけではないので、大層なことはいえないが、著者による説明を読む限りでは、従来の和辻などいうペルソナとか、木村敏などの「間」ということで、人のあり方が関係があって、その結節点にすぎないということと、それほど開きがあるとは思えないので、それをことさらに取り上げても、現代的な問題としてピンと来ないところがあります。人というのは玉ねぎのようなもので、会社員としてとか親としてとか様々な顔をもっていて、そういう皮を一枚一枚はがしていくと、芯は残らず何も残らない。結局、皮だけがその人という話は昔からよくある話で、その話と基本的に違いが、私には分かり難い。それは、読み進めていくうちに分かってくるのではないかと期待してみよう。

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