無料ブログはココログ

« フリッツ・ラング監督の映画「死刑執行人もまた死す」の感想 | トップページ | 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(2)~第1回講義 この愛すべき「私」という制度─世界に一つだけの花の就職活動 »

2019年5月27日 (月)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(1)~はじめに バイオグラフィーの哲学とは何か─その立ち位置とコンセプト

 著者は、まず耳慣れないタイトルの概念の定義を明らかにしようとします。その際に、「バイオグラフィーの哲学」のうちの「哲学」を取り出そうとします。その哲学の作られ方を建築に喩えます。
 いわば哲学とは、いまだ建設中の巨大な建物であり、その建物の中に大きな部屋、小さな部屋、その建物の中に大きな部屋、古い部屋、新しい部屋などがあり、しかもそれぞれの部屋の仕切りが時代状況に応じて取っ払われたり、急に仕切りができたり、思わぬ抜け道によって距離を隔てた部屋同士が接触したり、あまり人気のない部屋があったり、住民同士が喧嘩ばかりする部屋が並んでいたりする。
そういう建物全体は計画的に作られたわけでなく、その都度増築や改築をくり返した、いわば継ぎ接ぎ構造で、哲学者は、そういう建物の住民ということになります。
 この建物の住民たる哲学者たちは、多かれ少なかれ、一つの部屋にとどまることなく、いくつもの部屋を行き来し、ときに徒党を組んで建物の改築に邁進します。そうやって、最新設備を導入する一方で、地中深く埋まっていた部屋を発掘し、再び住居可能にするなど、領域や時代を横断する活動を行っているわけです。
 このような著者による定義は、哲学の内容に踏み込んだものではなく、あり方を概観しているようなもので、この定義に当てはまるのは、何も哲学に限らず社会科学も人文化学系の学問も当てはまってしまうものです。著者としては、厳密な定義というよりは、これから展開する議論のために、このように定義しておくと便利という程度のものと考えて言いと思います。議論の中で、あるいは結論で、この定義へのフィードバックがあるわけではないので、それほど重大に考える必要はないと思います。
 一方、バイオグラフィーとは何か、直訳すれば伝記とか自伝ということになりますが、このバイオグラフィーとは何かといのは、本書のテーマといえなくもないので、簡単に定義できないのですが、最初からそんなことでは話が進まないので、auto-bio-graphyという英語に注目して、
autobiographyとは、自らの語り口でもって、自己の生活、人生を記したもの、ということになります。端的に言うなら、自分語りであり、今風にいえば、自己物語化です。
 著者は、このような営みについて哲学することをここで行ないたいといいます。
 そこから著者は自分語りについて議論を始めていきます。
 そもそもこのようなバイオグラフィーの哲学という営み、つまり、バイオグラフィーの実践とそれについての哲学的考察というのは、それ以上疑い得ない究極の存在としてのコギト(われ思う)から出発したデカルト以来の近代哲学の中心です。しかし、「私」が「私」について語り、告白するという伝統は、それ以前にないわけではありません。たとえはアウグスティヌスの『告白』。なお、同じタイトルで著作を残したのは18世紀の啓蒙思想家ルソーでした。しかし、同じ『告白』というタイトルでも告白という行為を成立させている背景、構造が違うと著者は言います。つまり、
 アウグスティヌスの場合、常に神のまなざし、神の耳を間近に感じながら告白を行います。行うというより、告白を促される、といった方が正確かもしれません。自分について語るという行為そのものが、神による要請だ、という認識をもっているわけです。他方、ルソーの場合、自己を物語化の権威となるのは、自分自身だけです。アウグスティヌスは、自分について、その隠れた内容まで見通しているのは神さまだけだ、と他律的に考えますが、ルソーにとっては、自分以上に正直かつ成果気に語れる著者などいないわけです。その意味で、告白という自律的な行為自体に「私」という存在を保証する究極の権威が帰せられる、ということになります。
 現代の、かけがえのない、世にも独自な存在としての自己への愛というのは、ルソーなどの近代のヨーロッパに始まったもので、それを当たり前と思ってしまう我々は、そういうヨーロッパの文化的慣習にどっぷりと浸かっていることの証左です。
このような近代ヨーロッパ以降当たり前となっている自己告白ですが、それが20世紀後半からさらにドラスティックな変化を経験しつつあると著者は言います。
 欲望と快楽の源泉としての自己愛が、強制と制度の源泉としての自己愛に変化しつつある、と。大胆に言うなら、現在の社会では、自分を愛せない人間、あるいはその愛の証明ができない人間は、正常ではない、とみなされるのです。
もともと自己愛というのは誰もがもっているものが、現代人はそれが肥大化している。他者を思いやることなく自己を主張する、あるいは、他者の中に自己の欲望を投影し、いわば自分の分身ばかりを愛する、そうなってしまった欲望。そういう欲望が満たされるのは、個人が所属する集団が比較的安定したものである場合です。具体的には、同質的なメンバーで形成された会社や学校などといったところでは矮小化したナルシシズムが満たされる。そこでの個人は、自分が何をしたいのか、その欲望の中身を突き詰めて考える人間というより、そこそこの自分でよい、あるいは、そういうそこそこの自分が通用する場所はどこか、まるで快適な場所をひたすら探す猫のように、自分を受け入れてくれる集団を求めてさまよう、いつまでも母親の庇護のもとから離れない子供のようなものです。
 それが典型的に現われるのが企業への新卒学生の就職活動です。まさにモラトリアムを生きていた学生たちは、就職活動という現実を前にして、そこそこの人間ではない、企業にとってかけがえのない人材であることを示さなくてはならなくなります。しかし、その人材とやらが何か、明確な答えはない。そこで、おそらくこういう人材を求めているだろうという想定に自分が見えるようにするゲームのようなもの。会社ごとに自分のパーソナリティを仮面のように付け替え、それを私として会社ごとに編集しなおしていく。これを著者は制度的に強制された自己愛と呼びます。本当の自分らしさを出せという制度的な圧力が敏感な若者にとくにあらわれやすい。
 それは就職活動に限らず社会全体がそうなってきています。個人が自らを断片化しつセルフ・プロデュースし、社会の側もそういう断片の一番良さそうな部分を摘み食いするように、情報として蓄積し、ネットワークを樹立する。こういう社会を「バイオグラフィーの社会」と呼ぶ社会学者もいるということです。そこでは、個人が様々な仕方で自分の内面を自由に表現できる社会ですが、他方では社会の側が、個人より遥かに巨大で、複雑で、巧妙なシステムで、彼の内面を引き出し、データ化し、数値化し、商品化し、消費する社会でもあるわけです。
 これを、国家という大きな視点でみたのがミシェル・フーコーのビオ・ポリティークです。近現代以前の権力は殺す権力という外敵を取り除くことが中心です、これに対して近現代の権力は外敵排除より国内整備を優先します。そこでは、生の正しい価値、つまり国民の生活の健全さ、健康な生命を維持することが国家の存立を左右するようになってくるといいます。しかし、その正しいは国家にとって都合の良いもので、個人が各々突き詰めるものではありません。こうなると、社会の側が様々な形で投げかける「君は何ものか」という問いは個々人が勝手に自分語りをするというものではなくなって、個人の精神的・身体的な内側を、知という道具に裏打ちされた制度を用いて見える化と、それに伴って各人が互いに似かよった内側になるように監視し、調査し、情報収集し、教育するという、幾重にも重なる権力装置が働いているのです。
 これを個人の側からは、自分を語るといっても、自分ではない「他なるもの=外部」に依存し、この広い意味の他者に左右され、追い立てられているわけです。著者は自伝にもこういう構造があるといいます。
 人は多かれ少なかれ、他者を巻き込み、また他者に巻き込まれながら、どこまでが自分の言葉か判然としない物語を紡ぐのです。
 例えばプライベートな悩みといっても、それが生まれるのは、個人が特定の他者と関係を築いたり、組織に属したり、意のままにならない自分と向き合ったときです。また、悩みを告白するというのは、きいてほしい相手を言葉は想定しています。そんな私に自分が足りの力を与えているのは誰なのか、という語りの基盤となる者は時代より構造変化するというのが著者の主張です。宗教がそうである時代もあれば、自然体の私がそうという時代、そういう私の自然を分解して、そういうものをつくる無意識という時代、そしてそういう自然な私を国家がコントロールしようとする時代。そして現代の実情としては、自分語りの基盤の錯綜して混乱していると著者は言います。

« フリッツ・ラング監督の映画「死刑執行人もまた死す」の感想 | トップページ | 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(2)~第1回講義 この愛すべき「私」という制度─世界に一つだけの花の就職活動 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« フリッツ・ラング監督の映画「死刑執行人もまた死す」の感想 | トップページ | 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(2)~第1回講義 この愛すべき「私」という制度─世界に一つだけの花の就職活動 »