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2019年5月30日 (木)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(4)~第3回講義 自己愛、あるいは「私らしさ」の発明(発見)─ルソーという自然(1)

 ルソーは大きな矛盾を抱えている、と最初に著者は断言します。そのポイントは音声言語と文字言語の見せかけの対立にあると言います。つまり、声というリアルな話し言葉と、文字化されテキストという形で読まれることで、その声の痕跡がかろうじて感じられる書き言葉との間の、反感的な共感関係、と著者は言います。生きて呼吸し、食事し、会話し、セックスをする人間ルソーの現在のあり方ではなく、事後的に発見され、文字によって隅から隅まで構築して出来上がったルソーという作品群という身体に、ルソーは自分らしい自然さを見ます。これがルソーという矛盾の基軸であり、そういう意味で彼にとって自然とは、単なる観察や学問上の対象ではなく、あるべき自然であり、同時に(彼の認識では)今もなお失われた自然を意味しています。この章のタイトルのように、自然は発見されると同時に、発明される。
 これを時間軸に置き換えて言うなら、今を生きる人間との生き生きとしたコミュニケーションではなく、過去に属する死んだ言葉とのやり取りが、彼の自己探求を方向づけるのです。というのも、ルソーにとって、愛することや同情することを含めて、およそ人間らしさを形成する感情は、はじめから直接的に与えられるものではないからです。だからこそ、死せる存在からの再生という発想が、語りを通しての自己探求の営みを特徴づけることになるのです。ルソーは『告白』の前書きを次のような言葉で始めます。
これは自然のままに、真実のすがたのままに、正確にえがかれた、唯一の人間像であって、このような存在はまたとなく、今後もおそらくないだろう。
 ところで、ジェルジ・ルカーチは『小説の理論』の中で、近代小説の特徴を古代ギリシャの叙事詩と対比させながら次のように説明しています。古代においては世界観や文化的価値観は、統一的調和を保ちつつ、共同体それぞれのメンバーに共有されていました。それに呼応する形で、叙事詩の世界では、他の登場人物と本質的な異なった、何か特別な主人公が想定されることはなく、基本的には群像劇、しかも内省よりも行動がモノをいう劇です。どう感じたか、ということ以上に、どう行動したかが問われる、それは、共同体の中では成員一人一人のなすべき役割が決まっていて、実際に行った仕事や行為の卓越性に応じて評価が上下するにせよ、行為そのもの、あるいは、生きることの意味自体が決して疑われることがないのと同じです。これに対して近代小説の成立の背後にあるのは、共有されるべき価値感が不明瞭になったという事実であり、ここで登場人物は、それまで自明視していた意味や価値からの追放というと向き合うことになります。ルカーチは「故郷喪失」という言葉を当てはめますが、近代小説の中では、一人の主人公がそのような無意味さ、世界の無根拠性を引き受けねばならない。その結果、放浪と遍歴をくり返す中で一から作り上げなければならない孤独な自己の生活史が小説の実質を形成することになります。世界は客観的にどうであるか、ということよりも、私が世界をどう感じだか、その主人公独自の感受性の内的履歴が小説の内実となる。といいます。
 ルソーのバイオグラフィーはまさしく社会が提供する様々な制度、例えば家族、教育、国家といったものからの逸脱という経験によって縁どられています。そこから彼は、自らの感受性に忠実であれというまったく新しい思想の原理を導き出しました。何よりも自分を信じ、自己を愛すること、「私」という存在のかけがえのなさを肯定すること、ここにルソーの思想の核があります。まさに、ルカーチの言う近代小説です。
 『告白』の冒頭の言葉に戻りましょう。“自然のままに”というとき、別のところで自らのnatureが自然のはめこんだ鋳型がやぶられた結果であると断言していて、そのnatureもまた事後的に、“私の書くものを読んだ後で”初めて判断できる類のものだと言っています。ルソーは、自然、ルソーという人間の生を写し取ったのが書物というのではなく、書物を読むがごとく自らの生(=自然)に関わり合うのです。著者は、その典型的なあらわれがルソーの性愛に対するスタンスだと言います。
 実生活でルソーは5人の子どもの父親となりました。しかし、彼は満足(=射精)とともに消失する性的欲望という本能に反する仕方で、性愛を実践しようとします。それは性愛の野放図な発露を抑制し、遅延させると同時に、それを蓄積し、いつでも引き出せる、これはくり返し読み返せる書き言葉のようですが、ものに変えようとします。それが自慰です。生理的欲求によって自然と湧き起こるのではなくて、心に刻まれ書き込まれた自然のイメージによって起動するのです。つまり、想像と想起によって性愛が発動する。ルソーは、これを他者との友愛関係まで広げます。具体的には、友人の過剰な干渉を、自己の空想を乱すもの、それは自らのイメージの自然への干渉として嫌います。しかし、彼のこの姿勢には屈折があります。そういう自己像をルソーは自分を真に理解し、受け入れてくれる友人に出会っていない、性愛に関していえば、真の意味で己を失うほどの快感を味わったことがない。自分は外部世界に到達したことがないので、空想の世界で理想郷をイメージするしかできていない、といいます。つまり、そういう意味でルソーは内面に閉じこもり、したがって孤独で、それを嘆いていますが、その一方でそういう嘆き自体を愛している。孤高ではないのです。友人にせよ性愛にせよ、他者は求められるのですが、ルソーはその他者からの干渉を拒みます。他者の主体を認めないのです。ですから、この場合の他者は死者と同じです。

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