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2019年6月 2日 (日)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(6)~第5回講義 悲しめない「私」─フロイト・メランコリー・他者への愛

 ルソーの「私」は、観察者としての自然美の鑑賞という境地に行き着きました。それは、観察の対象が自然風景に限定される、と言うのではなく、事物や人間の自然で汚れなき(とルソーが考える)姿を、当の対象に干渉しすぎることなく自由に捉える、という志向を意味していました。とはいえ、この美的観賞は、彼の理想に反して、万人に共有される類の普遍性を備えたものではありませんでした。自然は、社会生活に役立つように事物や人間のnatureを改変しようとする文明人の利害関心から逃れるように、彼にしか捉えられない感受性でもって、かすめとるように描写され、彼の心に書き込まれたのです。中でも、ルソーの感受性が最もかけがえのない自然とみなしたのは、彼が幼少期に、他者に隠れるようにして作り上げた彼自身の性愛の感受性でした。
 ところで、ルソーの奔放な想像の戯れには、他者の介入する余地はなかったのでしょうか。イノセンスに対する彼の愛着は、イノセントな自分を見守ってくれるはずだった母の喪失という原体験を埋め合わせようとする代償行為であり、そうした行為に彼を駆り立てたのは、ルソーを母の簒奪者と名指し、母の代わりになれ、と命じた父の存在ではなかったでしょうか。
 ということで、著者はフロイトに近寄ります。
 「私」は、他者と対峙する。しかもその他者は、他ならぬ「私」を形成した当のものであり、自らを語る中で「私」は、その他者から何を受け継ぎ、受け継いでいないかを、改めて振り返り、決断する。そのような半生と決断は何よりもテキストという形で展開される、つまり書くということを通じてという形です。そこでは、「私」は、単に「私」の一部を作る他者について語るのではなく、他者の「声」を受け継ぎ、他者の代弁者という役割を担うことがあります。他者は、いつまでも「私」につくまとう強大な権力者、つまり「父」という伝統的権威として現れるときもあれば─その場合、他者は「私」がそこから解放されるべき対象、つまり、「私」が葬るべき対象となるものです─、声を奪われ、力を奪われた時代や権力の犠牲者、誰かがその声を引き受けてやらねば消えてしまうような弱者として、「私」が新たな生命を吹き込むべき対象となる場合もあります。このように考えると他者というものの存在の大きさです。そういう存在の大きくなった他者を、フロイトは「幽霊」と呼びました。
 1970年代のアメリカで重大なストレスとなる生活上の変化の調査を小此木啓吾は著書で紹介しています。それによると最もストレスが高いのは配偶者の死であり、離婚、配偶者との別れ、拘禁、親密な家族の死と続くそうです。ストレスというと職場や学校での人間関係とか経済的な損失とかトラブルに巻き込まれるということが考えられますが、そのようなことよりも家族関係に起因するものが上位を占めたそうです。そういうものを小此木さんは対象喪失、すなわち一体感が失われる出来事としてまとめています。生物として考えれば生存を続けることが最優先ですから、対象喪失に遭っても新たな環境に適応し、新たに関係をつくって生存に有利な環境を作っていくべきでしょう。しかし、人間というのは、そうはいかないのです。喪失の経験をストレスとして抱え込んでしまうのです。こんなとき人はどうするのでしょうか。小此木さんは二つのケースをあげています。ひとつ目は、対象を無理矢理にでも自分のものにすることで、自他の区別そのものを否定するケースです。自分の愛の訴えを拒否した預言者ヨハネを殺し、その首をかき抱いたサロメの伝説は、相手の生存を否定してでも占有したいという愛情は、極端な例です。そしてふたつ目のケースは、対象を破壊するまでは行かなくても、対象になりきることで、対象との一体化を果たそうとする態度です。例えば夏目漱石の「こころ」で先生は自殺した親友と一体化して奥さんとの結婚を果たしますが、自己との分裂に苛まれ自殺してしまいます。小此木さんは、このときは悲哀の仕事を遂行しないとこうなると言います。著者によれば、これはフロイトのという「Trauer」の概念にあたるといいます。Trauerはドイツ語で喪と悲哀という二つの意味を含んだ言葉です。悲哀の仕事とは、愛する対象はもういないのだという事実を受け入れ、自分のもとから対象を送り出し、その不在をきちんと悲しむということです。これがなかなか難しいのはフロイトの分析からも明らかです。フロイトはこれをリビドーと呼びました。著者はフロイトの読み替えですが、性的欲動というよりも愛着の意味合いで使おうとしています。要するに、特定の対象への持続的なこだわりです。
 フロイトの「悲哀とメランコリー」を見ていきましょう。他者の不在に対して悲哀の仕事をしていないのは、メランコリー、つまり、異常性が顕著な鬱状態であると言います。悲哀もメランコリーも、深刻な苦痛に満ちた不機嫌、外界に対する興味の放棄、愛する能力の喪失などの点では共通しているのですが、メランコリーにのみ特有の現象として妄想的な自己処罰願望にまで発展しかねないほどの自我感情の低下をあげています。メランコリー患者は、自分の至らなさを責め、自己批判を繰り返す。しかし本当は、彼は自分自身を責めているのではないと、フロイトは言います。フロイトからみれば、「私」が批判しているのは、「私」がかつて愛した他者、別の角度からいうなら、かつて特定の他者によって殊更に愛されていた「私」、ということが判明してくる。自己批判をフロイトは、愛の訴えとも表現します。というのも、自分を責めるというのは、つまるところ、どうしてあの人は自分を愛してくれなかったのか、あの人に愛されなかった自分とは何なのかという、破棄された愛への執着以外の何物でもないからだとフロイトは言います。そのメカニズムについて、恋愛の例が分かり易いと思いますが、人は多かれ少なかれ、愛する相手の好みや考え方、趣味などに影響され、相手のようになりたいと思い、その行動様式や思考方法を自分のものとして取り込みます。心理学的に言えば、他者の理想化、または理想自我としての他者のパーソナリティの取り入れ、と定義できるものです。このようにして過剰に理想化された「幻想の他者」─なぜ過剰な理想化であり、幻想かというと、相手が、「私」が希望し、そうあってほしい想像した通りの人間だという保証は、どこにもないからです─が、実際の他者との別れの後も、あるいは、愛の破綻がゆえにますます強固なものとして、「私」の中に居座るようになる。これをフロイトは「自己愛への退行」と呼びます。
 この自己への愛とは、自己が思い描き、いまだに廃棄できない他者への愛を意味するという点です。「私」は他者にすてられたがゆえに、捨てられる以前の、他者に同化し、他者に愛されていたはずの「私」に執着する。しかしこの場合、愛と憎しみが不可避的に交錯する点です。 「私」は、かつて他者に愛されていたはずの「私」、他者好みの「私」であった「私」を愛し、かつ憎む。
 メランコリーという病の奥深さは、苦悩を楽しむ、つまり自己批判自体が快楽と化している点にあります。それは、こういうことです。まず、患者が自分自身(つまり他者)を責めるのは、他者が自分を拒んだからです。そこに生じる憎悪を、他者の期待に応えられなかった自分自身への憎悪、と解釈しなおしてもよいかもしれません。その批判には、愛が破綻したことへの敵意、復讐心が働いています。にもかかわらず、自分(と、その中に住まう他者)に敵意を向け続けたい、と患者が切望するのは、彼が愛の訴えをあきらめ切れないからです。どうして「私」の愛をうけ入れなかったのかという恨みの心情は、今からでも愛をうけ入れてほしい、受け入れてくれるかもしれない、という希望と表裏一体の関係にある。「私」の中に幻想の他者を住まわせることで、絶望が希望へと反転する可能性を、「私」は絶えず垣間見ることができる、というわけです。
 極端な場合、それは自分を殺すことで、自分ともども他者を葬りたい。すなわち、成就したであろう他者と「私」の愛の関係を、現実の彼岸において永遠化したい、という願望へとエスカレートする。
 しかし、他者の欲望は幻想で、実際の他者は望んでいるかどうか分からないのです。それを幻想として葬ること、それをラカンは象徴的虚勢と呼びます。とは言っても、結局幻想は消えてなくなるものではない。むしろ私たちは幻想の中に生きている。我々は日常生活で彼であればこう考えるだろうと相手の内面を推察し行動しています。もちろん、内的世界に閉じこもるメランコリー患者と違い、私たちは、そうした推察を対話で実際に相手に確かめることができます。けれども、我々は日々の生活の中でそんなことをいちいち確認しないし、そもそも確認しようがない他者についても、我々は勝手にイメージを作り、あれこれと評価し、判断を下している。そこでもし、最も確認しようがない幻想が、「私」が持つ私らしさにあるとしたら。「私」は自分の個性、自分らしさを肯定し、愛する。けれどもフロイトが指摘するに、この自己愛の根底には、自分は愛されている、という幻想への信頼が存している。彼は、父や母の愛する自分でいたい、そうした「他者の欲望への幻想」によって自己が占領される心的過程を、個人が自らの性格を形成する上で避けて通れない道であると考えます。

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