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2019年6月13日 (木)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(14)~第13回講義 スピリチュアルな「私」─変容する非日常

 愛を通し集団内の連隊が強まるケースとして軍と教会が突出しています。戦争と宗教です。そしてどちらの場合も、集団を共通のミッション向かわせるうえで、ある模範的な個人の物語が共有されるという構図を見出します。そこでは、感情の錬金術ともいうべき、弱者へのいつくしみが、別の弱者の殺害の無条件の肯定へと容易に反転してしまう。愛が戦争の道具として用いられる。宗教についてはどうでしょうか、著者は、現代の日本において、スピリチュアルという分野に現れていると指摘します。
 著者は書店のスピリチュアルのコーナーを見た感想として、それらにある共通な傾向として自己愛を見つけ出します。しかし、それが提示するのは、他人は他人、自分は自分といった孤高を貫く、抑制の取れた自律的主体ではなく、「私」はこうやって成功した、だから「あなた」もという愚あの呼びかけです。三人称の広く公共的な読者に訴えるのとも違う、仲間内に囁くようななれなれしい感じで、読者が同意することを最初から決めてかかっている。そこには、単純な物語への志向がある。単純ということには、割り切り方がはっきりしているということが含まれます。これさえすればいいんだ、あとは何も恐れなくていいんだ、そういう恐るべき飛躍や省略を簡単に成し遂げる愚直さです。ためらいもなく、寄り道もせず、一つのことに徹底して取り組むという潔癖さでもあり、案の定それは、自分が正しいことをしているという確信を育てる温床ともなるものです。そして、単にテキストを読むのではなくて、そこに書かれた物語や教養を実践するということになると、そのような発想の単純さは、むしろ無制限の力を約束します。意にそぐわないものをことごとく「悪」と断罪する、極端なまでの党派性がそこから生ずることになるのです。
 島薗進の『精神世界のゆくえ』によれば、伝統宗教との違いを次のように分析しています。伝統的な宗教は救いをめぐる回心の体験が核心的な異議を持つのに対して、スピリチュアルでは癒しをめぐる自己変容体験に関心が集まると見ます。救済から癒しへという図式は宗教的経験の個人化を物語っています。つまり、救済が主張される場合、社会の成員が持つべき危機意識(この世は苦しみに満ちている、とか)があり、そういう意識が共有されているという意識自体が、いわば同じストーリーによって貫かれた運命共同体の形成を促します。回心という心の変革もまた、めいめいが勝手にやればいいというものではなく、共有すべきルールや教義に各自が従いつつ、ある種の超越、非日常性への道筋をきちんと辿ることが求められます。共有という前提があるからこそ、体制や体系となって制度が整備されている。これに対して、スピリチュアルの癒しや自己変容は、それぞれの成員が持つ心の悩みの解消、あるいは心構えそのものの変革を目指すという点で、最初から個人に焦点が当たっています。もとめる超越は外部ではなく、すでに自分の内部にある。このような内部への沈潜は、変わるべきでない自分、否定する必要のない時分と出会うという様相を帯びています。従って、自己変容は、変容しなくていい自己を発見し、これを肯定するプロセスです。だからこその癒し。ここでの日常から非日常へと突き抜ける救いとは違い、癒しは非日常のツールを用いて日常に回帰し、その色合いを変えてみせる。そのカタルシスだけで良い。
 そうであれば、このような癒しは回復であって、そこに根本的な意味での変容はない。ここには、日常に相対する形でイメージされていた非日常そのものがもはや存在しないで、日常がそのまま、非日常的なレベルにまで引き上げられている。そこで、著者は、日時用途非日常について考えを進めます。つまり、現代の傾向として、非日常がどこまでも日常の文脈の延長線上にある。つまり、非日常は日常の質的ではなく、量的な変化として現われるものとなっている。これは同時に非日常に通ずる日常自身が量的なファクターにより構成される度合いが高くなってきているということになります。歴史や政治、スポーツ、戦争までも情報化・映像化され、事態を粘り強く多角的に捉える正確さよりも、たたみかけるように人を感動に導くストーリーの単純さが、持続性よりも即効性が、自由よりも安心が、「そもそもそれが正しいかどうか」よりも、「今の私にそれが気に入るかどうか」が優先される。
 ドイツの哲学者リュディガー・ププナーは、非日常がダイレクトに日常化される現象を「生活世界の美化」と呼んでいます。古来、神々との交流といった非日常の経験は宗教的な儀式、例えば祝祭で、共同体が営むものでした。そこでは、普段の生活世界を貫く意味づけ自体が棚上げされ、ある種の例外状態が享受される。柳田國男の言葉を借りればケとハレの位相転換です。しかし、伝統的な宗教文化の衰退とともに、ハレの崇高さは喪失する。ベンヤミンが述べていたように、芸術の礼拝価値は展示価値に移行し、非日常の意味喪失に伴い、その分非日常の「見える化」が生じる。モノや商品、キャラクターという形で神的なものが日常に氾濫するわけです。芸術家自身も神殿から為政者の住まいへ、ブルジョワのサロンへ、そこから美術家や劇場、そして町の通りへと活躍の場が広がる。創造行為はよりポップに、刺激的に変質していく、ついには芸術と非芸術との障壁も取り払われ生活世界そのものが劇場と化す。興味深いことに、ププナーは、なし崩し的に展開される芸術の大衆化によって、芸術はより真面目になる、と論じます。軽薄さや無意味さ、猥雑、頽廃、超現実的なエレメント、要するに形而上学的な残滓を残す「遊び」の部分が退けられる。というのは、現実を棚上げする余地がもはや存在しない以上、私たちは芸術に、日常的現実を改善する役割を、あくまで日常の論理に沿った仕方で求めるようになるからです。役に立たないものは芸術でない。つまりも日常化できないものは非日常ではない。
 彼岸、つまり非日常ですね、を喪失した宗教、スピリチュアルは、私たちがこの世で経験する様々な苦悩の受け皿として、一種のセラピスト的なものになってきている。それに伴って、社会そのものがそうなってきている、個人的様相を帯びて、具体的には社会問題として括られるテーマが個人の悩み、個人の苦しみという枠組みに基づき描きだされるようになる。法整備や社会的インフラの充実、問題の多角的理解など、解決のために必要な構造的で抽象的な視点が考慮されず、個人が具体的に悩む姿にダイレクトに焦点が当てられ、とにかく彼の傷ついた感受性を癒すことが優先されるということです。「あなた」がどう傷つき、そこからどう立ち直るかという個人的ストーリー以外、社会が「あなた」に向ける興味関心はなくなる。誰もが他者のプライベートな苦しみを見たがる。ここで奇妙なことにバイオグラフィーそのものがマニュアル化してくる。苦しむ「あなた」がどう悩み、立ち直ったかという感動的なストーリーを一定程度予測し、期待している。
 かつてアウグスティヌスの自己探求が、構造的に言ってあくまで神からの啓示に依存していました。キリストは苦悩に対してセルフヘルプなんていいませんでした。それに対して、近代以降になると、最終的に頼りになるのは自分自身、要するに本当の「私」を見出せる、自分好みの「内なる神」だと考えるのです。
 この著作を読み進めてくると、最初は文学的、哲学的だったのが、社会学的にかわってきました。すりかわってきたというべきなのでしょうか。ちょっと違うかな、という印象です。

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