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2019年6月 3日 (月)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(7)~第6回講義 愛の葬送、そして再生─昇華・転移・言語行為

 フロイトは人がやがて成長し、他者を愛するようになるには、その人にとって極めて大切な他者との原初的なつながり、幼児期に与えられ根源的な愛の絆を諦める必要がある、と考える。愛される客体から愛する主体への移行において不可避的に刻み付けられる傷、これを彼はメランコリーの経験、あるいは愛の作業として特徴づけた。フロイトが、極めて大切な他者として念頭においていたのは、家族であり、両親であり、とりわけ父の影響です。父を殺害し、母を独占したいという欲望の構図、いわゆるエディプス・コンプレックスです。しかし、現代ではこのような強大な父親というのは現実的なのでしょうか。フランクフルト研究所のホルクハイマーは、次のように分析しています。資本主義社会の到来とともに因習的な職業共同体が解体し、仕事に対する長年の経験やスキルゆえに尊重されてきた働き手は、規格化された商品生産のいち担い手という流動的なポジションに位置づけられることになります。それによって父という家長に家族メンバーが精神的・文化的に依存する傾向が、相対的に低下する。実際のフロイトの父親もそうだったと言います。
 フロイトが無意識やエディプス・コンプレックスの理論を見出したのは、父の死後に友人を介して行った精神分析によるものだと言われています。フロイトが対峙したのは事実としての父親との関係というよりは、父とは息子に何を命じ、何を禁止する存在であるのかというイメージです。したがって、彼の理論の核は、快不快の原理だけでは人は生き延びることはできないという点にあると著者は言います。その原理の外に連れ出す視点、「私」と「あなた」との間で展開される終わりのない愛憎劇の舞台外に「私」自身を引き出す第三者のまなざしをフロイトは父性的な機能と捉えたと著者は言います。そしてこの機能ときっても切り離せない関係にあるのが、脱性化、ないし昇華だといいます。
 細かく見ていきましょう。フロイトの「自我とエス」の第三節「自我と超自我」です。彼によれば他者と「私」の原初的な結びつきは、母の乳房と赤子の唇との関係として整理されます(いわゆる口唇期です)。この母乳を吸うということは、単なる生命維持のためだけの行為にとどまらず、快楽の根源的な経験として、幼児の原型を形作るものです。ここでは、用事にとって自他の区別というのはなく、また幼児は乳房と唇を通して母乳が供給されるということを前提として、当たり前のことと受け取っています。フロイトのリビドーのこの時期を自体愛とも呼びます。ただし、原型であってナルシシズムとは違います。というのは、「私」が自己に執着するという場合の私というのは単なる肉体的快楽の供給源ではないからです。フロイトは「私らしさ」ということには、自我理想という概念を用います自分自身に対して、ああしろとか、あのようになれとか、自分の方針に従えと命ずる、内なる「私」です。私らしさは、この内なる「私」を「私」自身が愛する、という構図の確立とともに形成されてゆくものなのです。
 この自我理想の導入は、ある意味「私」という主体が分裂することでもあるわけですが、それは性的対象としての乳房の放棄、口唇期の卒業です。幼児の自体愛というのは性衝動そのもの、つまり欲望の衝動的満足に自足しているのが口唇期です。そこからの卒業とは、この満足のプロセス自体の放棄を意味します。しかし、それは、自我の中に対象を作るという、ある種の代償行為が求められる。どういうことかというと、母乳への執着という「対象愛」の代わりとなるのは、自分と両親との同一視です。両親のようになりたいという同一視への衝動は、両親を理想化し、それを取り込む、つまり現実の乳よりも「父らしい私」になることで、父母からの愛を今以上に得たい、という欲望に動機づけられていきます。このようにして自我は自らの内に「父らしい私」を住まわせることで変化します。ある意味で、「私」の性愛は、この内なる「私」との関係抜きには語れなくなる。対象愛から自己愛へと対象が入れ替わる。衝動の発散で満足していた口唇期から、この内なる「私」をいかに満足させるかという、長期にわたる自己との関係に再構築されることになります。
 「私」の中の内なる「私」は「私」を愛することができる。というのは、今や「私」は、内なる「私」がかつて関係を結んでいた対象(両親)と同一化したから、というわけです。この場合の両親というのは、「私」が理想化し、自己の性状として取り入れたものですから、取り入れにどこまで成功しているか、その客観的な基準はありません。ある意味では、「私は対象である両親にそれほど似ているのだ」というのは、「私」が「私」自身に対して与える自己イメージとして、最も原初的な幻想であり、フィクションだとも言えます。というのも、両親の思う「私」でありたいというこの自己イメージには、同時に、そもそも「私」は両親のようにはなれない、という諦念が含まれているからです。「私」の中に別の「私」を住まわせるには、フロイトによれば、両親との直接的な性愛関係の放棄を要するからです。男児がこのような対立の構図の果てに父と母を放棄することはエディプス・コンプレックスの図式そのものです。そして、少年は父母の他に性愛の対象を探すように促される。これがエディプス・コンプレックスの克服です。しかし、フロイトによれば、このようにして家族の外に対象を探すにしても、両親の影響は無視できず、彼が見出す相手は、「私」が幼少期に喪失した自分にない「欠如」を埋める存在に他ならないからです。
 もはや手に入らぬとイメージされたものほど、聖化され、理想化されるというのは、幻想のメカニズムとしては、決して分かり難いものではなく、フロイトはその日常的な例として、親が子を理想化し、溺愛するケースをあげる。つまり無垢で、汚れを知らず、幸福と全能感に包まれた子どものイメージを大人が抱くことは、自分たちが喪失した原初的な自体愛の投影の結果だと、フロイトは言います。自体愛そのものが、事後的に形成される幻想といえます。その結果両親との性愛的な葛藤は収束し、今の自分を形成する基準となったわけです。これがフロイト的昇華である、と著者は言います。
 フロイトは、もともと昇華を性的目的以外にリビドーが用いられることを言っていました。フロイトは基本的に、宗教的儀式を含む文化活動(芸術もそう)全般において人間の抑圧された性衝動の戯れを見出そうとしました。アンナ・フロイトは、思春期に突如として起こる知識欲を、知性という運河に性衝動を導くことで、その奔流をコントロールしようと試みました。この場合、脱性化とは、性的快楽を直接的に得ることの断念を指します。その意味で知性化は、性愛の満足を遅延させる、ある永続的な命令を含んでいます。
 ところで、フロイトは、父が発した(去勢の脅しを含んだ)「してはならない」という禁制を「私」が内面化する過程に超自我の形成を認めます。父性原理とは、極限化すれば、人は動物のように振舞ってはならず、自然状態と一致してはならない、という直接性の断念を指令するものです。この超自我をフロイトは良心とも呼びます。良心とは、この場合、リビドーを統御し、社会的現実と軋轢をもたらないような形態において何らかの代償行為で満足するように「私」に促すものと位置づけられます。良心の声などととますが、この良心を特徴づけるのは、指令としての言語的なあり方です。
 アンナ・フロイトによれば、指令する他者として現われる攻撃者(=父)と自分の同一視は超自我の正常な発達による、ひとつの前段階といいます。それは罰への恐怖が大きいために、自分を攻撃を受ける前に攻撃する側のポジションと同一化し不安を外に向けようとするのです。しかし、ちちの指令が回避されるべき身体期脅威にとどめていては、指令を受ける側に生じるのは自己反省ではなく、受けた脅威の単なる模倣であり、ある種の反復強制に過ぎない(反省は、「私」の自己分裂、つまり責める「私」と責められる「私」との対峙という構図をつくりだすものです)。いじめや虐待を受けた者が、それ以上ターゲットにならないように、自分が可逆する側に立つことで、恐怖を避けようとするのと同じ機制です。
 この段階では、誰かに攻撃される/誰かを攻撃せよ、という闘争のイメージとどまっていて、それを乗り越えたところに超自我の象徴性「父の名」が形成されるわけです。著者は言います。
 この象徴的なものとしての超自我は、誰もが従うべき道徳的規範を知れている中立的な座として普遍化可能な、動機づけの中心地だと著者はいいます。父親に指令されたからというのでは、誰が見ていようがいまいが、「私」は、それをほかの誰かが「私」と同じ立ち場であってもそのように行為するだろうと考えて行う。これが超自我に従うということの意味だと言います。父の名という言葉に示唆されているように、この場合他者と「私」との関係は食うか食われるかの肉体的イメージを脱し、名や言語、意味の一般化を担う象徴形式によって再構築されます、想像(=闘争)から象徴(=平和)に上書きされるとラカンは表現しています。
 つまり、「私」は、世界や両親が「私」だけのものであるという自体愛(これが、あなたは私たちに従い、私たちだけを愛さねばなせないという、両親による支配と表裏一体の関係にあるわけです)を諦めねばならず、第三者によって承認されるために醒めた形式へと、「私」の欲望を委ねばならない。それが社会において、おのおのの「私」が自身の欲望を保持しうるための不可欠の道だと著者は言います。すべての者に平等に断念せよ、と指令する法的存在が「父の名」です。ただし誤解のないように付け加えると、この断念を免れた唯一の存在として父がいる、というのではないと言います。象徴するもの自体に実質がなく、言語が中心を持たないように、父は具体的にあれこれせよと命じ、欲望の赴くままに振舞う権威的実体ではない。父殺しの神話の父の名とは、母を独占する父を葬るというフィクションから私たちが受け継いだもの、私の生存に不可欠な代理的構築物に他ならないと言います。
 この第5回と第6回の講義はバイオグラフィーそのものの内容からは少し離れている、それは直接言及しないからということだけでなくて、この時点では、バイオグラフィーという自己を語るということと、自己とは何かということがうまく区分されていなくて、そのため、ルソーやアウグスティヌスを取り上げたときは、その区分があって、彼らが戦略的にその区分を利用していたのに対して、フロイトの場合は、それが曖昧になっているので、このふたりとのつながりがよく分からなくなっています。敢えて言えば、第4回から第5回へのロジックではなくて、レトリックで続いているようで、第4回から第7回に飛んだほうが論理的な筋道はスッキリするように思えます。

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