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2019年6月15日 (土)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(16)~第15回講義 「私」の残り香─バイオグラフィーの生理学へ

 著者は、まとめに入ります。
 語りは第二の人生を約束する。しかし、この約束は、第一の生における「信」に裏打ちされているといいます。自分の有限な生が終わったあとも、誰かにそれが届くだろうと信じることで、私たちは書くということを動機づける。自分自身が他者のそのような思いを受け止め、数多くの死者の証言者たらんと考えてきた人間であればなおさらです。そのようにしてストーリーの世代的な連鎖が生まれ、伝統やヒストリーが形作られていきます。ただし、このような各自の自己認識は、それを可能にするのが、ある種の過剰さであり、そこには歪みや暴力性を内に持っています。本書の中でも、「あなた」を「私」が一番よく理解しているという思いは、死者を死者として葬送するのに寄与するのではなく、死にきれない亡霊となって「私」に取り憑き、「私」の生命を脅かし、さらに周囲を巻き込む。他方で、危機的状況にある国家がそのように亡霊の回帰を、国民全体が問答無用に受容すべきものとして制度化し、ひとつのストーリーに固定化した上で大々的に利用することも本書では確認しました。それは、「私」が「あなた」を見るのと同じように、「あなた」は「私」をみなくてはならない、という鏡の論理です。
 そんな中で、著者は本書を通して強調したかったこととして、自分について語ること、その告白の営みは、自分の生についての危機意識に端を発しているということです。それは人の無意識的な心身のメカニズムのみならず、バイオグラフィーの歴史的な出自にも由来するものです。告白を告解として、はじめて制度化したキリスト教徒たちしは、社会全体がある歴史的岐路に立っているという危機意識を共有していました。極端な言い方をするなら、人は誰でも、はっきりと正体を同定できないような様々な「亡霊」を内に抱え、様々なストーリーに巻き込まれており、そしてそこから、そのひとらしさだけでなく、その人の生き方そのものが発現してくる。フロイトが健全なる自己愛と位置付けた自我理想ですら、他者から愛されているはずの「私」という幻想を「私」があいさねばならない、という入り組んだ構成をしていました。そこにはそもそも、そのように愛してくれた他者はもういない、という裂け目が刻み込まれていました。野坂昭如には、この構図が逆さまになった形であらわれていました。幼い彼を突き動かしていたのは、愛されてもいない自分について、他者たちが何かをつぶやいており、それに聞き耳を立て、愛されている自分を演じ、自己物語化し続けねばならない、という衝動でした。ストーリー構成自体が空虚さを抱えながら、それが自分の唯一のアイデンティティである以上、バージョン違いの「私」をその都度再生産しなければならない、そういう思いが、首尾一貫して彼にありました。空襲を契機とした家族神話の瓦解というカタストロフィーを生き延びた彼は、この構図が再度逆転し、グロテスクなまでに破綻した家族を自伝的に描き続けました。
 これらのように、自分をどう語るかということは、その人が自分を構成する無数のストーリーとどう折り合いをつけてきたか、それらをどう消化し、どうその消化に失敗したかを証言します。
 著者は、「消化」といい「昇華」とはいいません。昇華は知性化、言語化と同義であり、それは自分の悩みを第三者のように語り、かえって問題を隠蔽する傾向があるというのです。そういう姿勢から、テクストそのもの、とくに自己についての語りの内に、その人が自己自身や他者とどう付き合い、どう関係を築いてきたか語り手が様々なストーリーを消化し、我が物にする過程が透けて見えてくる、と言います。それは、言葉の問題を身体の問題に、文学を科学に還元することとは違う、臭いものに蓋をするという慣用句を持ち出すと、言葉は「蓋」のようなものと言えます。それが言葉の持つ志向性だと著者は言います。そして、蓋をするという構造自体に、なにがとかの臭いものを感じてしまうと言います。
 しかし、近代以降、蓋が閉められ、その無数のストーリーが細分化し、人は他人事のように遠目に眺めて観察するだけになる。蓋である言葉が独り歩きして、人は物神崇拝的な志向で、無数に細分化されたストーリーは観察するだけなら陳腐なパターンで、人はそれら相互のこまかな差異に一喜一憂する。消化から消費への変質と著者は言います。その行き着く先は、言葉という記号は操作が可能です。その例がメディアによる幻想です。メディアの供給する記事はセンセイショナリズムになりがちです。政治の腐敗、経済の行き詰まり、人々のモラルの瓦解…。ある事件が報道され、すくざま、これは社会の病理を象徴する事件ではないか、とコメントが付せられたりします。すでにそこでは、破局が現実として想定され、イメージされ、先取り的に消費されています。商品としてのカタストロフは、現実より現実らしい意味内容によって、何も起こらない私的空間にいて、かるか遠くでの出来事と視聴者に思わせる。そのストーリーは一方的に編集され、例えば、テロの場合、テロがどういう政治的背景などといった抽象度の高い考察内容ではなく、まずもって傷つけられ殺された犠牲者の生々しい顔や声を取り上げ視聴者の義憤を惹起させる視聴者の興味は犠牲者の救済に集中することになります。義憤は問題となった全体ではなく、矮小化され感情的な反応として収まります。いわゆる感動ポルノです。カタルシスを味わった視聴者は後味を残すことはない。
 「私」のうちに内面化された道徳的な価値体系を超自我と呼ぶなら、社会の変化とともに、その内実も変動するものです。まず、だれもが共通して尊敬したりする際立った英雄的個人や権威ある国家がそうでしたが、それが不在となったのが現代で、その後に来るのは自閉的なタコツボが乱立する社会です。そこでは身内にだけ通じるルールが盲目的に守らされると不寛容な、融通の利かない社会です、それは法体系のような抽象度の高い象徴性というより、記号的に消費可能な身体イメージへの執着によって特徴づけられます、つまりは、いまの快適な生活を変えたくはない。その究極は、「私」は予め敷かれたレールを外れないように歩いて、最小限の物語を消費するだけでよいということになります。それでよいのでしょうか。
 「私」もそうでしょうが、人ならではの消費行動には、ある種の余剰物から生まれた、生存には必ずしも必要でない余剰から生まれるところがあります。人間が作り出さなければ歴史はないのです。記憶、思い出とは、生物としてのヒトから逸脱した人の人生に伴う根源的な灰色の領域です。だから「私」は「私」のものか判然としない無数のストーリーを、「私」に宛てられたメッセージとして読み、その灰色の領域に、あえて自身を巻き込まれるようにする。それは慣れ親しんだ土地から放逐されることになるかもしれません。正気を失ウものもいれば、他者の苦悩を少し覗いて知った気になって、そのノウハウを摂取して「成功」する人もいます。人は誰でも何かについて当事者であると同時に、それ以外については非当事者で。それ以外の領域が圧倒的に多い。そういう自覚のもとに生きています。それなのに、なぜか知らない土地に行こうとしたり、知らない者たちのストーリーに共感して、毒とも薬ともわからないそのストーリーを自分のものとして飲み込んで、自分なりに租借、消化しよとする。それを、見たこともないような他者に向けて託そうとする。
 かなり、期待した内容とはすれていて、内容はいいのですが、ロジックの飛躍というのが、筋があちこちに飛んでいってしまう構成で、しかも、筋が展開するというのではなくて、あちこちに飛んだものが、ぐるぐるまわって、最初のスタート地点にいる、と言う印象です。ロジックというよりレトリックなのか。なんとなく、言いたいことがあるようなのだけれど、整理されていない、というより整理以前の形になっていない印象です。だから、下手をすると、このなかで著者自身が批判をしている安易な感動ポルノとして読まれてしまう危険もある。私自身、そういう読み方が楽なので、そういう方向にひきずられつつ読みました。

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