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2019年6月 4日 (火)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(8)~第7回講義 告白の(暴)力(1)─苦しみを共有することの苦しみ

 「私」が「私」自身について語る場合、その語りは「私」以外のものに牽引されています。その意味で、「私らしさ」の自然で純粋な発露が可能だという、近代的主体にまつわる常識を疑うところが、この著者の出発点でした。しかし、この場合の他者に女性は入ってこなかった。西洋の歴史では「私(=男性)」の告白に際しては女性の発言権は無視されてきました。というのも、女性は発言し、想像する主体ではなく、男性によって見られ、覗かれ、想像される客体の位置に固定化されてしまっていました。ですから、女性たちの告白には、男性の場合によりはっきりと他者が、あるいは他者の大きな影が登場せざるをません。つまり、これまで彼女たちから、語りにまつわるあらゆる力を奪ってきた男(性社会)という権威的他者の姿が。他者に自分のことを理解してもらうことは、彼女たちにとっては、自分について彼らが持つイメージをまず揺さぶるという、困難な課題に取り組むことでもありました。そう著者は指摘します。
 ここで著者が取り上げるのは、アリス・ウェクスラーの『ウェクスラー家の選択』です。社会全体に浸透している、「正しき(=正常な)生」とはかくあるべし、という制度的圧力に反駁するために、彼女はプライベートな事項の告白を武器として用います。一般的に流布している価値観に対し、別の一般論をぶつけるというのではなく、ある種権威づけられた一般論によって苦しんでいる個々の人間の生に着目することで、そのような権威が当然のものとして受け入れられる日常の「平和」そのものが胚胎する暴力を告発する、というのがありス・ウェクスラーの戦略です。彼女はハンチントン病という遺伝性の難病を体質的に受け継いだ人で、この本でのスタンスは、こちらが健常者であちらが異常者といった区分けは、彼女にとっては重要であるでしょうが、事柄の本質ではない。むしろ彼女は、選択や社会の側からの診断の背後に控えている沈黙の「声」、すなわち、正常と異常との間のグレーゾーンに属する、様々な感情の葛藤─病気の発症に怯える者たちにとっては、他者に大っぴらにできないこの葛藤こそが、生の大部分を占めていた─ほとんど発言の機会を得る前に消えていったこの葛藤に光を当てることです。その彼女の念頭には、常に、病気を発症して亡くなった母の姿があります。母親は彼女の過去と未来を指し示すもう一人のアリスです。ということは、アリスは母を葬ることを通じて、母と結びついて自分自身の大切な一部をも葬るという二重の課題を引き受けた、と著者は解釈しています。
 アリスは問います。母は、自分がこの悪魔の遺伝病の潜在的な罹患者であることについて、どこまで自覚的だったのだろうか、そして、彼女は、やがて自分が子どもを産めば、その子にも病気の因子が受け継がれることを承知の上で、自分たちを生んだのだろうか。しかも、この母親は大学時代遺伝学を専攻していたので、このことを考えなかったことなどありえるのでしょうか。そういう問いかけをしながらも、アリスは母の人生の断片を拾い上げ作業を行います。そこには、彼女の苦しみを知らしむべきという倫理的なものもありますが、ある意味アリスは母に寄り添い、母に助けを求めることで救いのない自身の死の不安から逃れようとしている、と著者は解釈しています。
 一方、アリスの行っていることには、半ば強制的に他者を巻き込むという面があります。寝た子起こし、過去を蒸し返し、平穏な日々を波立たせる。アリスの、そのターゲットの第一は母です。そもそも母はアリスに自分のことを書くことを認めていたのでしょうか、そして、自分の苦しみの引き受け手としてアリスを認めていたのでしょうか。しかし、アリスに執筆させる起点となったのは、間違いなく死者の絶対的な沈黙であったのです。
 著者は言います。アリスのこのような行為は、単なるエゴイズムで片づけられるではないと言います。それはあなたの物語であって、私の物語ではない、私には関係ない、私を巻き込む権利は、あなたにはない─このような割り切り方が、特に身近な者同士にとって困難であることは、私たちが日々経験していることです。それぞれに固有の縄張りを持つ主体が遭遇し、互いの領分を保持しつつ、関係性を築くという具合に、私たちは生まれ育つわけではありません。人がいて、ストーリーのはっきりした物語が始まるのではなく、見通しがつかないほど絡まり合った家族の歴史かまずあって、そこに否応なしに投げ込まれ、共有と拒絶を繰り返す中で、私たちは他者に傷つけられること、他者を思いやること、あるいは独り立ちすることの意味といったものを、それぞれの人にとって固有の仕方で経験していくのではないか、と著者は言います。そこには万人が頼れる道徳マニュアルはもとより、関係者全員が完全に納得とうるような解決などありはしない、とも。
 事実は、母も父も、病気についてあまり話し合うことなくアリスをもうけた。それが事実でしょう。しかし、アリスにとっての真実とは、この事実に彼女が抱く感情的部分をさすのです。しかし、それは、あなたの個人的心情の問題に過ぎない、といって済むようなものではなく、何十年にもわたって秘密裏に共有され、触れることがタブー視され、平和な日常からそれとなく放逐されてきたその心情─あるいは、心情のそうした扱いの蓄積そのもの─こそが、彼女のみならず、家族全体のヒストリーを形成する核心に位置していたと言えます。だからこそアリスは、母の病気の正体が発覚すると同時に、「知ることと知らないことの問題、秘密と沈黙の問題が突然大きく課せられた。家族について知っていると思ったことは突然方向転換して、もう一度、すべてのことは再検討し、解釈し直さなければならなかった。私たちが誰なのかということが突如として疑問の対象となり、すべてのことがこの病気を前提に再構成される必要があった」と述べざるをえなかったのです。
 この再検討とはどういうことか。アリスは、母の死の予感を自らの発症リスクに苛まれ、深刻な鬱状態になっていた時期に「ちゃんと悲しんでおく」必要を強く感じていた、と記しています。一家を蝕む病因が明らかになるにつれて、それぞれが人生行路において決断し、選びとったもの、不本意に選択したもの、不首尾に終わったもの、そうした出来事の一つ一つに改めて光が当てられ、解釈する余地が与えられる。それは、病気でなければ可能になった人生の可能性を数え上げ、今の状態を嘆くこととは違うものです。事実は事実として変更できません。しかし、こうもできたはずだという(行為の)想像がある。もしくは、あのときは、こういう具合に本当は感じていたのではないか、という(気持ち)の想像がある。これは決して、今から過去を振り返りつつ、事後的に気持ち捏造することではありません。過去を再発見し、それに情動を通して輪郭を与えることは、自分にできたこと、そしてできなかったこと、その限界を自分自身の心の目で確かめることのように思います。ひとは、そうやって、苦々しい過去を色々な角度から捉えることで、不安なく前を向いて生存の足がかりをつかむことができる、そのメカニズムは存在する。そうして情動自身が浄化される。つまり、この「私」に巣食う亡霊のような他者との命がけの戯れにそれなりの決着をつける。 「再構成」とは、このようなプロセス全体のことです。やまだようこは『喪失の語り』の中で次のように述べています。「ことばを発するには、情動から「はなれ」、文脈から「はなれ」、私から「はなれ」、他者にも通用する「ことばの世界」へと再構成する必働きを必要とする。語るという行為は、過去という倉庫のような場所にしまわれていた「記憶」をそのまま現在という場所に引っぱり出す作業とは、根本的に異なっている」事実としては変わらないのですが、言葉を挟むことで、過去への愛着の仕方が変わる、とでも表現できる。
 夢や想像、抑圧されてきた沈黙に言葉を与える作業は、ときに、その作業を行う者自身の感情を暴走させ、心身を苛み、より深刻な妄想へと巻き込んでしまうことがあります。アリスの場合、恋人や家族との対話が独白の底なし沼から彼女を守っていたようですが、しかし、アリスの見る「真実」と、周囲が見るそれとは、同一ではなかった。終わりのない討論を仕掛けるアリスは一時の安心を得られるかもしれないが、巻き込まれる他者はからすれば、お前の描く事実は正しくないし、母は決してアリスの考えるような人間ではなかった、と言いたくなる場合もあるでしょう、しかし、そもそも母をめぐる沈黙、母に触れないでいるとからもたらされる周囲の安心が、アリスの不安の核にあったことは忘れられるべきではありません。

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