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2019年6月 5日 (水)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(9)~第8回講義 告白の(暴)力(2)─苦しみは誰のもの?

 フィリップ・ルジェンヌは自伝を次のように定義しています。「実在の人物が、自分自身の存在について書く散文の回顧的物語で、自分の個人的生涯、特に自分の人格の歴史を強調する場合を言う」この定義は文章形式に特化したもので、語り手=主人公が手探りで進まねばならない、不透明な倫理的空間の存在を等閑している、と著者は言います。他者に関することも含んでいる物語を、誰が自分の物語として語れるのかというと戸惑いから出発する。自伝の書き手は「私」のものでないはずの物語を、「私」の視点から差異しなければならないのです。「私」自身の物語であるはずのものが、どこまでが「私」個人のものなのか判断しきれないという、混乱と無知覚悟しなければなりません。アリスと母親の事例がそうであるように、「私」が「私」について自伝的に語ることは、「私」が他者について伝記的に語ることと重なります(母の救済は、「私」の救済でもある、という図式)。また、このようなグレーゾーンを取り上げるまでもなく、他者(第三者)の方が「私」(当事者)について、より正確に語りうる場合もある。そうなると、自伝と伝記を実質的に峻別することは難しいということになってきます。
 ここで取り上げられるのは、グァテマラのマヤ系先住民出身の人権活動家、1992年にノーベル平和賞を受賞したリゴベルタ・メンチュウのインタビューによる聞き取りを基にした自伝的著作です。当時の軍事政権の強権的支配のもとでの人権侵害で家族を殺され、自身も生命の危機にあった。そこには強い倫理的メッセージが強い説得力をもって読者に伝わってくるものでした。しかし、その彼女自身の内容について事実を捏造していることが明らかになりました。
 しかし、自伝の詳細部分はどうであれ、彼女が政府によって家族を殺された事実は変わらないし、そもそも圧政が先住民たちに多大な犠牲を強いた、という歴史に偽りはないのです。メンチュウが意図したのは、彼女の個人史を詳細に綴ること以上のものであり、従って自伝に込められた倫理的メッセージは正当に評価されてしかるべきです。
 では、メッセージが正当なものであれば、フィクションが入り込んでいても自伝のコアな価値とは関係のないことなのでしょうか。そうだとしたら、重要なのはメッセージ、すなわち事実全体の意味をいかに効果的に伝えるかという点で、個々の事実の細々とした点に拘泥する必要があるのか、なぜ事実を、ありのまま、見聞きしたままに報告するひつようがあるのか、そもそも、ありのままという場合のありのままとは何なのか、という問いが生まれます。たしかに、最初からフィクションであることが前提の物語と、そうでない自伝とでは、物事の立ち位置そのものが異なっているので、その相違を見過ごすわけには行かないのかもしれません。しかし、差し当たり。読者の心を動かすという「大義」からすれば、フィクションとノン・フィクションとの質的な相違は、あまり見当たらないようにも見えます。
 ここで著者ヴァルター・ベンヤミンに話を転じます。彼は1940年代のパリで、ナチの追跡の足音を身近に感じつつ、歴史について残した断片。そこで彼は言います。歴史は常に、勝者や支配者の立場から書かれ、伝承されていきました。人類の称えるべき足跡を伝える文化であっても「その存在を、それを創り出した偉大な天才たちの労苦のみならず、その同時代人たちの言い知れぬ労苦にも負うているのである」国家の繁栄、文化の洗練、科学技術の発展、それらの記録からは他ならぬそうした人類の進歩を支えた無名の人民、敗者、犠牲者の苦しみの記録は抹消されているが、その抹消という事実こそが、進歩自体が内包する野蛮さを物語っている。けれども、「歴史認識の主体は戦う被抑圧者階級自身なのである」だからこそ、抑圧された者たちに光を当てよと試みるものは、歴史の大いなる流れに迎合するものではなく、むしろ「歴史を逆撫ですること」を己の使命みなされねばならないと言います。ベンヤミンの言う、言い知れぬ無名の者たちの労苦を浮かび上がらせること、それはアドルノによれば、全体より部分、中心より周縁、普遍なるものより移ろうもの、精神の偉大さが約束する本来より、過去の痕跡として切れ切れに残された生の身体性へのまなざしを要請します。というのは、個々の生に刻まれた痛みの経験層以上に、国家や制度といった大文字の他者が彼に強いた暴力を如実に証言するものはないからです。
 様々な大義のもとに、いったいどれほどの命が失われたことでしょう。それは人類の歴史を学ぶたびに、私たちがうんざりするほどたちかえらねばならない真実でしょう。メンチュウの自伝、メンチュウを擁護する陣営に対し疑義を唱える理由も、ここにあると著者は言います。圧制を告発するという大義のもとに記憶を捏造することは、政府の手によってもたらされたメンチュウの家族やその他の人たちの痛みと苦しみを陳腐化することに繋がるのではないかと著者は言います。加えて、もしグァテマラ正負への怒りや人民への同情をかきたてること自体を目的と考えるのであれば、最悪の場合、メンチュウの著作を読者が読んでただなみだすればいいという、安っぽいセンチメンタリズムだけが残ることになりかねません。そういう感傷主義はたいていの場合、事柄の細かなニュアンス、現実の両義的側面や複雑さなどを顧みず、単純でわかりやすいストーリーを求めるものなのです。果たして、こういう具合に自伝が読まれることを望んでいるでしょうか。
 しかし、ものごと単純ではありません。わかりやすいストーリーを希求することに、全く逆の意味があることを著者は紹介しています。私たちが物語を求めるのは、ある出来事が他ならぬ「私」にとって何の意味があるのかという問いの前に、否応なしに立たされた場合だと言います。そこに私にしか見えない、フィクショナルな光景が浮かび上がる。個々には、主観主義だとか、自己満足といった断じ方ではすまされない問題が潜んでいる。著者は小川洋子の『物語の役割』の事例を紹介します。ホロコーストを生き延びたユダヤ人文学者ルート・クリューガーのケースです。彼女はアウシュヴィッツに移送された折、年齢を15歳と偽り、やがて母親と脱走しますが、その途中、ユダヤ人の行進と出会います。「それはついこの前迄苦悩をともにした人々の行進です。本当ならその中にいるべきなのに、自分は嘘をついてそこから抜けだした。命を守るために嘘をついてしまった。12歳なのに、いきてきた年数の丸々4分の1を足して15歳だといった。偽の身分証明書でドイツ人に成りすました。自分はあの人たちを裏切ったのだ…。ルート・クリューガーは助かった喜びに浸るどころか、自分の嘘に苦しみます」
 生存者が死者に対して抱く罪悪感、生存者の自己処罰感情がうかがえます。事実としてはクリューガーが悲劇を引き起こした直接的な原因主体であるはずがありません。しかし、おそらく、この悲劇はあなたには無関係である、あなたがいようがいまいが、事は起こるべきして起きたのだといわれる方が、死ぬより辛いに違いない。自分が仲間を見殺しにした、殺したというフィクションの中に苦しみの源を持ってくる。そういう苦しみ方をしなければ受け止めることはできないものがあると小川洋子は言います。ここではすべてが「私」と、「私」の問いに容易には答えてはくれない「あなた」との関係性を軸として形成されます。「私」は決して「あなた」から目をそらすわけではいかない。個々で問われているのは、事実が客観的にどうであったかという認識ではなく、他でもない「私」にとっての事実の意味なのです。そして同時に、事実に対して「私」がどう向き合うか、その倫理的姿勢も問われています。倫理とはこの場合、「私」にしかできない仕方で、「あなた」に向き合うこと、もしくは、そう促され、呼びかけられているという感覚それ自体だといえます。しかしそれは、事実、つまりこの場合「あなた」の死の責任を「私」が背負い、償うという意味づけによって、「あなた」に応答すること、すなわち、死んだものの後を追うように自らも死を選ぶこと、もしくは、そこまでいかなくても、喪を拒否し、亡霊とともに夢うつつの世界に自らを閉じ込めることにもつながる。
 このように「私」と「あなた」との間の自問自答が抱える隘路は単純ではないのです。喪失した「あなた」との接近は、「私」の死を誘う。その誘い方は、愛や償い、責めなど、様々なパターンがありますが、いずれもが、「私」の欲望を満足させるフィクショナルなシナリオを「私」自身に提供する(「私」はしぬべきなのだ、「私」と一緒にいたいと「あなた」はいっているに違いない、等々)。無論、それらが実際に他者が抱いていた思いや愛であるかは、第三者には分かりません。わからないということは、その結果を安易に価値判断できない、ということです。
 しかし、と著者は主張します。このような自問自答─「あなた」の苦しみを、「私」の生存が脅かされるまでに重く受け止め、「私」にしか答えられない、「私」固有の苦しみとして我有化すること─がどれほど深刻であっても、そこに欺瞞とセンチメンタリズムが介入する可能性がないわけではないと。「我有化」という述語を、あえて著者は使いましたが、そこには独占するという意味にも通じています。「あなた」の想いを、「私」は独占する。「私」だけが、この想いを厳粛に管理し、そして代弁しうる。「私」の苦しみなど、容易に他者に分かるものか、そういう思いは、真実を含んでいます。これに対して、「あなた」の苦しみは「私」の苦しみであり、つまり万人の苦しみである、こういう論理─それは論理としては、アウグスティヌスの隣人愛にまで遡ることができるものです─で、死者の苦悩が一般化(=脱固有化)され、消費の対象となってしまうことは、受け入れ難い。にもかかわらず、そうしたシナリオに、「私」自身が依存してしまう可能性も、否定できないのです。
 第1回講義の『何者』の理香さんは、お定まりの文化・社会的コードで自分のプロフィールを作りあげ、他者(希望の企業)に売り込むとともに、その欺瞞に気づきつつも、そうした既製品まがいの「私」を、自分に固有の物語として受け入れていました。こういう分かり易いシナリオを、人は他人に求める場合もあれば、他人から提供される場合もあります。あなたという人間が、私にはよく分かる、あなたはこういう人間である、あなたのなやみの原因は、これこれこういう点にある。
 これに対して、結局のところ他人の苦しみなど誰にも分からないし、誰のものでもないそうした苦しみについて、知る努力をする必要などない。というのもあります。
 そのどちらでもない、他者や自己の理解に付きまとう限界や失敗には、むしろ本質的でポジティブなものがあるという洞察が重要なのだ、と著者は言います。

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