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2019年6月 6日 (木)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(10)~第9回講義 家族愛の神話に抗して─野坂昭如の様々なる「私」(1)

 野坂昭如という作家は、繰り返し自身の実体験を小説に反映させ、自伝的な作品を数多く発表してきました。一方、野坂本人は、繰り返し自身の自伝の虚構を暴露し、それを訂正するという行為を、後に発表する自伝の中で行ってきました。つまり、新たに発表する作品は、以前の作品の修正案であって、この修正案が新たな修正案を産むという具合でした。その結果、彼の自伝は、常に現在進行の試みとして、まさに野坂昭如という人間の生の営みに限りなく近づき、そこに組み込まれるというものとなります。それを反対側からみると、彼の生そのものが、生を証言するだけでなく、当の証言自身を告発し、反省を迫るという自己対話の営みなしに、成立しないような複雑に様相帯びるものとなる。そう著者はとらえます。したがって、アニメ化されて有名になった『火垂るの墓』の無垢な戦争犠牲者という世間的なイメージにたいして、小説の中では絶えずノイズが鳴り響き、家族のフィクショナルな語りで、その折々に微妙に異なった姿を見せる「私」を提示するのです。
 著者は、そういう「私」の語りについて、ジュディス・バトラーの議論を紹介します。彼女が固執する「あなたはいったい誰なのか」という問いかけ/呼びかけは、単に相手の人生の履歴書的な情報を求めているのではなく、「私」を「私」たらしめているはずの「あなた」とは誰か、という問いかけ/呼びかけを通して透けて見えてくるであろう「私」と相手とのつながりを回収する試みでした。彼女は、問いかけ/呼びかけを安易に止めることを、ある種の非倫理的で盲目的な暴力とさえ呼びます。というのも、「私」は「私」自身について、完全に掌握し、知り尽くしているという具合に、いわばアイデンティティの自治権を宣言することは、ときに、「私」を形作る他者の存在に対して盲目になるだけでなく、「私」の視野に入ってくる他者について、その見え方そのものが果たして正しいのか、「私」が見ている「あなた」は、本当の「あなた」であるのか、そのような自己批判的な会議の契機を、まさしく「私」の外部に追いやることに繋がるからです。
 「私」が「私」の意のままになると所有物でないのと同様に、「あなた」は「私」だけの所有物ではありません。もし、他者に目を向けるなら、私たちは家族についての、そして家族との語りを省略するわけにはいかないでしょう。そして、野坂という作家は、その語りにだれよりも固執した作家です。
 ところで、家族ほど、所有と共有の論理を体現しているものは、他にないでしょう。住まいを共にすること、喜怒哀楽を共有すること、互いの人生に介入し、ときに堂々と、互いのクローゼットの中身を見聞し、検閲し、始動と矯正を施すこと、このような相互依存の体制のうちで、家族にしか分からない濃密な交わりを積み重ねる。家族のために自己の人生の大半を捧げる人がいる一方で、好みや考え方、生き方までを当たり前のようにメンバーに押し付け、陰険な袋小路へと巻き込む者もいる。それというのも、とりわけ親子関係を考えた場合、血を分けた者たちが、互いについて知りすぎるほど身近に存在し続ける、という事態があればこそです。特定の対象との過剰なまでの結びつきを、人は端的に「愛」と呼びますが、それは極端な場合、暴力と区別がつきません。あまりに身近すぎて。他者が見えなくなる、つまり他者が自分を確認するだけの「鏡」と化す場合がある。他者に意見を聞いているようで、単に自分への同意を求めているだけの人間は、私たちの周囲にザラにいますし、私たちの生活は、たいていの場合、そのような他者との地続きの関係を自明視することから成立していると言えます。
 これに対して、野坂にとって家族がリアルな存在である所以は、これらとは少し違うと著者は言います。彼は、自分の家族をモチーフにしつつ、他方で彼は当の家族について、何だか他人事のようだと、事あるごとに述べます。野坂の問いかけ/呼びかけは、自分は家族について知らない(=関わりがない)という感覚にいつみ裏打ちされています。敢えて最初に図式的に述べておくなら、「私」の与り知らぬところで、与り知らぬ者たちによって、「私」という存在は規定された─そこに関与した「あなたたち」とは誰なのか、こうした問いかけ/呼びかけを、彼はもはや返事を与えない「あなたたち」に向けます。従って彼の自伝的語りは、二重の損失(「あなたたち」は不在であり、そもそも「あなたたち」と「私」とのつながりは、自明でもなんでもない)を抱えていると言えます。家族に対する野坂の固執は、矛盾した物言いですが、この喪失自体への固執であり、そこに彼の自伝的語りの比類なき固有性がある、と著者は言います。
 そういう彼の特徴が表われているところ、例えば有名な『火垂るの墓』について、アニメと原作との違いに著者は注目します。それは細部なのですが、ドロップ缶の扱いです。アニメでは、母の不在や生活の先行きに不安を覚える妹を気遣う兄を印象づける形でドロップを与える清太の姿が描かれます。彼自身は一粒も口にせず、最後は空の缶に水を入れてジュースを作ってやるのですが、原作ではドロップ缶は節子の骨を入れる単なる入れ物として軽く言及されるだけです。反対に、原作にあってアニメにないのが「節子の粉ミルクもようくすねた」という何気ない一節です。野坂の作品の特徴的な要素として、抑制のきかない食欲が少年の自画像の重要な部分を占めているのですが、ここでも清太は食欲を抑えきれずに節子の食料をくすねるのです。それが「節子の粉ミルクもようくすねた」です。
 野坂には、似たようなストーリーの『死児を育てる』という作品もあります。中学生の久子は二歳半ばの妹文子をつれて新潟に疎開します。そこで体験する疎外と困窮。食欲を抑えきれない久子は文子の食料を横取りし、ストレスから虐待します。その結果、文子は衰弱し、空襲の最中に見捨てて逃げ出します。翌朝戻ってみると、文子は死体となってネズミにかじられていたのを目撃します。数年後、戦後となって久子は、平和に結婚し、出産した娘に、激しい不安を覚えます。娘の誕生は、文子を死に追い詰めた自分の所業と対峙することを迫られたからで、罪悪感に耐えられなくなった久子は娘を殺すのです。
 もうひとつ『子どもは神の子』という作品。主人公は小学二年生の冽は、生後十ヶ月の久恵を、おとなしくさせるため、蒲団を顔に被せて殺してしまいます。冽は日頃から久恵をぞんざいに扱っていましたが、いわゆるこどもらしさを演じるのが得意で、その無邪気さを誰も疑わない。久恵の葬儀がすむと、家族の生活は、妹のことなどなかったように、もとの日常に戻ります。ある日、冽は発作で倒れた祖母に助けを求められるのを無視して、祖母はなくなります。再び葬儀。そんな冽は、台所で酔いつぶれた母の横でガス栓をひねり、葬式をゆめみるところで物語は終わります。
 これらの主人公たちは、それぞれに野坂のバイオグラフィーのある部分を引き受けているのは明らかです。しかし、どの人物も野坂そのものでもありません。また、これらの自伝的な作品の人物を網羅的に集約すれば、野坂の全体像が出来上がるというのでもありません。それぞれが野坂本人であり、様々な「私」が存在するのです。そして、その複数性は、彼が折々に、テキストという仕方で問いかけ/呼びかけを試みる家族(「あなたたち」)との複雑な関係性を反映したものです。

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