無料ブログはココログ

« 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(14)~第13回講義 スピリチュアルな「私」─変容する非日常 | トップページ | 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(16)~第15回講義 「私」の残り香─バイオグラフィーの生理学へ »

2019年6月14日 (金)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(15)~第14回講義 ふつうで自然な「私」─バイオグラフィーとバイオテクノロジーの未来

 この著作で述べられてきたのは、「私」を「私」にする、「私」以外の他者とは何(誰)かということであり、またこの他者との関わりがどのように言説化され、制度化され、ある種の暴力の場として機能してきたかということです。しかし、他者なしで「私」のアイデンティティが成立しないことをどんなに多角的に検証しても、「私」は「私」だと、その同一性に執着できる、強力な論拠がまだ残されている、それが「私」の身体だと著者は言います。
 著者は言います。自己の身体以上に、交換不能のものがあるでしょうか。「私」の身体は「私」にしか動かせず、ちょっとした仕草や食べものの好み、身体機能から性癖にいたるまで、誰よりも「私」がよく分かっており、生誕から死まで、「私」の最も身近な隣人、というより、「私」そのものであり続けています。私たちは、他者になり替わって痛みを経験することはできません。
 しかし、このような常識を揺さぶる出来事は20世紀の後半に次々と生起します。例えば臓器移植です。これは身体の交換不能を否定し、生命の部分化・資源化・共有化が始まりました。「私」の身体を「私」が独占するものではなくなった。他方で、「私」の身体の死も誕生も脱自然化が進んでいます。そこでは、人工授精による両親のいない「私」、クローンによるコピーの「私」ができる。さらに、遺伝子レベルの操作や診断によって、生まれてくる人間の人為的な改造、あるいは障害などの可能性のある胎児の堕胎といったことができてしまう。そこでは、あらかじめ異常者を排除するという優生学的な風潮が広まってきていると著者は指摘します。それは、例えばオルダス・ハクスリーが『すばらしき新世界』という近未来小説で描いたディスとピアのような均質的な世界に近づいているように見えます。
 20世紀の社会は、例外でないこと、不自然さや異常性が認められないこと、平均値に近いこと、要するに「ふつう」であることが、そのまま個人の自然さを保証する指標となっている。しかも、それはそうであるのが当然という、イデオロギー的な自明さとなっている。ふつうであること、すなわちすべてにおいて、自分自身のことでさえ第三者のようなまなざし、観察者の視線から気を配り、その状態を逐一覗き見し、大きく逸脱していないことに安堵する、そういう、第1回講義の『何も者』の登場人物がまさにそういう人間です。
 なにか、本書の議論は最初に戻ってきてしまった、かのようです。

« 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(14)~第13回講義 スピリチュアルな「私」─変容する非日常 | トップページ | 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(16)~第15回講義 「私」の残り香─バイオグラフィーの生理学へ »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(14)~第13回講義 スピリチュアルな「私」─変容する非日常 | トップページ | 入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(16)~第15回講義 「私」の残り香─バイオグラフィーの生理学へ »