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2019年6月 1日 (土)

入谷秀一「バイオグラフィーの哲学 「私」という制度、そして愛」(5)~第4回講義 「私らしさ」の適量─ルソーという自然(2)

ルソーは『人間不平等起源論』の中で、理性に先立つ形で人間の魂に先天的に与えられた二つの原理にについて述べています。そのひとつは自己愛であり、もう一つは憐れみとか同情といったものです。これらは「私」と他者をつなぐキー・コンセプトです。その際に、その信条の適量が問題とされているのです。前章でも、ルソーは友人との関わりを求めながら過剰な干渉は嫌悪していました。これも適量という範囲が想定されていたと言えるかもしれません。適度なリョウの見極めを、ルソーは、感性的存在としての人間のnatureに関わる深刻な問題とみなします。すなわち、どの程度我々が他者を憐れみ、同情すれば、そしてどの程度我々が「私」自身を愛するなら、お互いの生存が保障されることになるのか、とルソーは問いかけます。しかも、その適量ということに関して、時間が関係している。それは、ルソーにとっての自然はイメージとしての自然であると前章で述べましたが、イメージが固まり、頭に書き込むのに時間がかかるのです。
 さて、ルソーにとって自己愛とは、文字通り自己の生存を優先させる志向のことです。彼は自己愛を、共同体を必要とせず孤独に生活していた未開人というフィクションの中の人類の自然状態に見出します。ほとんど動物のような状態です。したがって、ここには世間からの評価とか、他人のまなざしは入り込む余地はありません。それを彼は自尊心として峻別します。一方で、憐れみによって人間は動物と違った自然を獲得することになります。他者を憐れむには、他者の状態を想像する力が必要で、その想像とは時間を伴います。例えば、粗野な主人によって身体を傷つけられた飼い犬を見て憐れむのは、その犬がどんな扱いを受けたか、また今後どんな扱いを受け続けることになるかを想像するからであって、たんに現在の犬の状態を見て憐れむというのではない。そのように想像をするためには、私にある程度の余裕が必要です。つまり、この場合、ルソーは私が優越的立場にいることと切り離せない。ここに、他者のために自分を犠牲にするという深刻な対立は進められてはいません。それは適量ではないのです。それゆえ、自己愛は他者への憐れみと対立どころか、両立するのです。他者への憐れみは、他者の不幸が私の想像の世界に侵入し、私を完全に他者と一致させない程度に、他者の不幸を想像するという線引きの範囲内であるべきなのです。私は他者と心を一つにする。しかし、私は他者ではないので、他者が不幸であっても、私は不幸ではない。そういう線引きです。
 アウグスティヌスとは違って、ルソーの憐れみの背後には、他者たちを巨大な共同体にまとめ上げるキリスト教の神話はありません。彼が他者への憐れみを促すのは、人間のはかなさを心得ているからです。すべては無常に移り変わるということを自然の本性であると知悉し、幸いにもその不幸を免れている我が身のありがたさを理解できるものだけが、同情という感受性を正しく用いることができる。
 ここに想像力が働いているということは、ルソーの最初のところに戻って、彼にとっての自然とはイメージであって、告白という言語化がその想像をつくるということで、ここで、他者を憐れむということは、その観客になるという、友人との関係について、ルソーが観客の位置にあると述べましたが、これと同じことであると言えると思います。それは、しかし善悪の両面があるということではないでしょうか。特権的な観察者になってしまえば、アウグスティヌスの際の監視する神のようですし、しかし、彼は神ではなく人間ですから覗きという倒錯に陥ってしまうおそれも含んでいました。

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