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2019年7月

2019年7月29日 (月)

決算説明会見学記─名物経営者の現場復帰

 先週、懇意にしていただいているアナリストの厚意で、またまたN社の第一四半期決算説明会に行ってきました。1~3月の売上が中国の景気状況の影響で急落し、この4~6月も同じ状況が続き、売上高は前年同期を下回り、減収減益となった。増収増益が常態となって、この会社では珍しいことです。それもあって、状況の厳しさが目立ち、説明会の雰囲気も空席がちらほら見られ、質疑応答は時間が足りないほどなのに、今日は終了予定時間前に質問が途切れた。どことなく寂しい雰囲気でした。決算説明会はプロのアナリストやファンド・マネジャーが出席する場なのに、結構状況に左右されるものなのかと思いました。企業の実力を見極めるのに、こういう厳しい状況でこそ、よく見極められるのに、と思うんですけれど。プロも、意外と野次馬というか、軽薄なんだなと思ったしだいです。
 この会社の名物経営者である会長は、そういう状況で後継者の社長に道を譲ろうとしていたことから現場復帰し、今回の説明会は社長は出席せず、会長独りで仕切ると、いつもより生き生きとした印象。話し方は、いつもより落ち着いて、むしろ静かな様子だけれど、話す内容は、ここ数回のような脱線や質問するアナリストをいじったりするような遊びがなくなり、かえって実質的な話で、中身の濃いものでした。むしろ、不慣れな質問にも丁寧に聞いて答えていて、真面目というか真摯な姿勢が目立ちました。例えば、自動車向けの製品のことについて、アナリストたちには彼らの専門外だからと不勉強を皮肉るようにことが多かったのですが、今回は、中国の自動車市場のトレンドから新製品のニーズの可能性、それに対する同社の戦略方針まで丁寧に説明していました。例えば、電気自動車を奨励している状況に対して2大メーカーが標準規格品の大量生産体制を敷こうとしているが、それに先んじてモーターの生産工場をすでに建設し、標準規格品をモディファイさせたトラックや大型車輌の生産ニーズも予想して、新規の工場建設を予定している。これに対して、ヨーロッパの電気自動車は遅れ気味だったが、中国の進歩に尻に火がつき始めた状態だが、中国と違って標準規格品の大量生産には進まず、差別化を図るようなので、対応するモーターは特注品の開発体制をつくっているなど。それに、応じるために国内の子会社を含めてグループの技術者や生産体制の大規模なシフトをしている。その経費が、第1四半期は利益を下振れされたと。
 現時点では、その関係も含め、引き合い、受注がとれているので、生産体制の整備が課題という。それゆえに、生産体制が整った下半期からは、利益を取り返し、通期では当初計画を達成すると。
 ただ、景気状況の展望については、大方の見方よりも、むしろ悲観的で、しばらく好転は見込めないだろうということでした。ただし、決算結果の減収減益については、景気を理由とせず、自社努力を原因と表明。つまり、景気がどうあろうと、稼ぐことのできる体制をつくれなかった経営の責任であると率直に認めていました。これを経営者自ら、語るというのは、やはりすごいと思いました。この人だから、こう話しても、人々の信用を失わないところだと思うのですが。その裏には、通期では成績を残す確固とした自信があるからだし、その根拠である後半の経営戦略は説得的です。既存の売上増加は望めないので、新しい分野を含めて利益を取っていくことでした。何か、会長の雰囲気が、話す声こそ小さくなりましたが、声に力があり、現役に復帰したことで、これだけ生き生きしてくるものだと思いました。それと、私の妄想かもしれませんが、初心に帰るとでもいうような真面目というか真摯な態度が目立ち、そこに、意気込みと言うのか危機意識というのか、そういう感じが強くしました。

2019年7月27日 (土)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(10)~終章 世界に住み込むということ

 本書では知覚経験は多感覚的でマルチモーダルであることを示すとともに、五感についてそれぞれマルチモーダルであることを見てきました。そこで出てきたのが視覚中心主義への批判です。現代の我々の世界と生活は視覚中心主義になっている。実際のところ、多くの人々が一日の大半の時間をスマートフォンとパソコンの画面を見て過ごしているわけです。
 そこで、視覚中心主義は、そもそもどこから来たのかを探っていきます。
 著者が、たどり着いたのはアリストテレスです。『形而上学』のなかで、人間というものは、もともと感覚とくに視覚を好む。それは効用を求めてとかいうのではなくて、感覚すること自体が好まれるといいます。とくに視覚なのは、他の感覚より物事についてよく分かると、より詳細な知を得られるからだといいます。理性的動物としての人間の本性である知への愛を視覚は具現しているというわけです。

2019年7月23日 (火)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(9)~第2章 感覚のスペクトル(7)

5.生態学的現象学の観点から
 知覚経験はマルチモーダルでありながら、その都度固有な感覚様相のあり方を示すことを、どう理解するか。それを、シュトラウスとギブソンを手がかりに考えてきました。両者のアプローチには違いがあり、敢えて単純化すれば、ギブソンは知覚の「何を」という側面に焦点をあわせたのに対して、シュトラウスは現象学的な「いかに」に焦点をあててきた。そこで著者は両者が補い合うような結合、つまり生態学的現象学を模索します。
(1)感覚の部分的等価性
 知覚経験における「なにを」という側面と「いかに」という側面の二重面的な性格を見ていこうと言います。例えば、我々が異なった感覚様相を通して同じ対象を知覚的に経験している。例えば、同じ火を見たり、熱さを感じたり嗅いだりしている。この場合、異なった種類の知覚システムを等価とみなしています。これはギブソンの議論ですが、このときシステムの間に違いがあるとしても、それはそれぞれの様相でピックアップされる情報の詳しさの程度の差に還元されます。
 他方で、例えば、我々が火を見ている場合、火は多様な色とかたち、それらの変化する姿などをまとって現われます。例えば、この場合の色は、色一般として現われているのではなく、火が現われる場合に示す特有の色のあり方をともなって現われています。火の色の現われ方のモードはカッツの導入した概念で光輝色というあり方を示しているといいます。それは物の色である表面色やスペクトル光の示す面色などとは明らかに異なった現われ方をしています。それに対して、火のかたちは定かでなく、姿を変幻自在に変化させながら、それに触れることはできない、ないしは触れると痛みをもたらすようなあり方をするものとして現われています。それは表面色とは異なった触覚的性質といえます。このような仕方で火という情報は色の特定の現われ方のなかに具現しているということもできます。光輝色と表面色の違いと言えるでしょう。
 この例を知覚経験のマルチモーダルな性格という観点に拡大して考えてみると、カッツの述べる色彩の多次元性は、色彩に現われるマルチモダリティであると同時に、対象が主体に対して持っているアフォーダンス(意味づけ?)が示されていると考えられます。消防自動車の赤のような表面色は、そこに抵抗を見て取ることができるという点で触覚的要素を示していると同時に、硬い表面のもつアフォーダンスが示されています。他方で、火の赤は不安定な光の動きによって触覚的意味が示されると同時に、それに触れると痛みを感じさせ、危害をもたらすようにアフォーダンスが示されるということができます。この意味で、色彩の多次元性の内実を構成しているのは、対象のもつ多感覚性、つまりマルチモダリティを意味していると同時に多様なアフォーダンスが示されていると言えます。
 ギブソンは、この多様なものを連合するのではなく、区別するのが知覚の問題であると言います。これは光輝色という見え方だけでなく、音や他の対象でも同じようなことが、つまり多次元的に起きているといいます。我々が各々の感覚様相において火に対応する現われ方のような特定の現われ方を見出すことができるとするなら、異なった感覚様相を横断して対象の同一性を理解可能にする要因は、共通した核のようなものではなく、それぞれの感覚的現われ方に備わる多次元性ということになります。知覚経験の「何を」の側面が「いかに」の側面と切り離しがたく結びついているからには、異なった感覚様相を横断して経験される同一性は、同一の中核が存在するというのではない。したがって、知覚経験の対象の同一性は、経験の外部で前提されたり、決定されたりするものではなく、経験を通して、その内部でその現われ方に即して構成されるものとみなされねばならない。シュトラウスによれば、知覚経験の対象としての全体性は、つねに補足を必要とすると同時に補足を可能とする仕方でしか登場しない「全体」、つまり「非-全体」だからです。そして、マルチモダリティという特質によって、対象の同一性はその現われ方に内在的な仕方で捉えることができるのです。
 したがって、知覚はどの様相のもとで実現する場合であっても、部分的には等価なのだと言えます。見られる火、触れられる火は、感覚様相の違いに応じてそれぞれ違ったものいいたくなるほど異なった現われ方を示すと同時に、他方では視覚的に現われた火の色の現われ方の中に、その音や暖かさや匂いもそして触れる官職への連関が示されている、と言えます。
(2)痛みをともなった感触
 ギブソンは、痛みは対象の危険性を意識化するうえで有用なものであることを認めています。例えば火の危険はやけどをした痛みによって知ることができます。それ対象の価値評価を含み回避行動を喚起する機能で、生きるために不可欠です。にもかかわらず、他方でギブソンは、痛みは観察者の身体のみに関係し、世界との知覚的関係からは切り離されたものであることを強調します。このふたつは矛盾しているように見えます。
 前者は、痛みというのは身体にとっては有害で避けるべきことを示す情報であるが、それのみでは環境についての知覚をもたらすことはない。それに対して、痛みをともなう接触により、触覚的知覚が成立しているために、環境の情報得ることができるということです。
 これに対して、後者は痛みは知覚に干渉する、あるいはその妨げになることが強調されます。シュトラウスも、この後者の点を強調しますが、そうであるとすると、痛みは感覚のスペクトルの中でも、他のさまざまな感覚と単純に並列することができないことになります。痛み以外の感覚は世界との関係を可能にし、我々に様々な知覚的世界を開示してくれます。それに対して、痛みの感覚の機能は、世界との関係を妨害し、世界へのアクセスをむしろ閉ざしてしまう傾向を持つからです。しかしながら、世界との妨害された関係もまた、あくまで世界との関係のなかで生ずるものであり、世界との関係の多様性に応じて妨害されたあり方も多様です。その多様さは主体が世界ならびに世界の中の対象とどのような関係を結んでいるかに依存しているからです。これらのことから、痛みの経験を単純な知覚経験の一種のように性格づけることはできないとして、著者は痛みの特殊性を強調します、次からは、それぞれの感覚がマルチモーダルでありながら、固有の特徴を示していくのを見ていきます。

2019年7月22日 (月)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(8)~第2章 感覚のスペクトル(6)

4.「感覚のスペクトル」のモデル
 これまでの議論を踏まえて、まとめて感覚様相のスペクトルのあり方を直観的分かりやすくするためのモデルを提示します。それを色彩のスペクトルの応用とでもいうものです。我々が日常的に見ている色をスペクトル分析してみると、日常的に赤、黄、緑、青などのように原色といわれている色は、実際には混合したスペクトルから成っている色ということです。つまり、すべての波長の要素を含んだ色ということです。この色彩スペクトルの例と類比的に、我々が日常生活の中で、純粋に視覚経験、聴覚経験などとみなしている経験もまた、実際には多様なすべての感覚様相の混合によって成立している。つまり、マルチモーダルなのだと考えます。しかしそのなかで、どのような感覚様相が支配的となるかによって、あるいはどのような対象に注意をむけるかによって、その都度の感覚様相が確定したものとみなされる。

2019年7月18日 (木)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(7)~第2章 感覚のスペクトル(5)

(2)ギブソンの感覚論
 現代の感覚論で媒質の重要な働きを強調しているのがギブソンです。ギブソンによると動物と人間の生活している環境は、古典的な物理学が描くような、空虚な空間のなかに様々な対象が位置を占めているような世界ではなく、その環境を構成しているのは、媒質、物質そして両者を区分けしている面であると言います。たとえば、地上でもっとも基本的な物質は大地であり、最も基本的な媒質は空気と水です、大地と空気の間の境界面を形成するのは地面であり、それは動物の知覚や行動の基盤です。
 媒質のおもな機能は情景を用意し、知覚を可能にする点にあります。このように考えると、知覚は刺激を受け取ることから始まるのではなく、媒質内の情報をピックアップすることによって成立すると言うことができます。したがって感覚様相を特徴づける(物理的)規準として考えられるのは、刺激ではなくて、媒質内に実現している情報のあり方ということになります。つまり、媒質の違いに対応して違った仕方で実現する情報のあり方に応じて、感覚様相が区分されることになるというわけです。そして、感覚器官という概念もまた違った仕方で理解されることになるでしょう。身体活動を通して情報を能動的に探索することが知覚の基本である以上、探索活動を行う身体のシステム全体が感覚器官とみなされなければなりません。このような考え方が。知覚システムとしての感覚というギブソンの感覚観を形成することになりました。
 さらに媒質は、個体とは違って、動物の運動を妨害するのではなく、支援することによって、動物の多様な運動を可能にする役割を担っています。媒質のこの特徴は、知覚は、媒質内の情報をピックアップするという働きによって実現されるのです。
(3)生態学的観点からの帰結
 以上のようなギブソンの考え方は古典的な知覚の理論の受け身の姿勢とは反対の方向性で感覚概念を解釈しようと試みます。
  a.動物の感覚
  b.感覚・運動・媒質
  c.五感という感覚観
 感覚の数を五つとみなす一般的な見方に対して、ギブソンは新たな見方をします。五つの感覚様相の区分はあいまいになって意味をなさなくなっているが、外部への注意の五つの様式の反映としての意味があると言います。それは、身体の知覚装置を方向づけるための五つの主要な方法です。聞く、触る、嗅ぐ、味わう、見るという方法です。これらは、「耳-頭部システム」、「手-身体システム」、「鼻-頭部システム」、「口-頭部システム」、「眼-頭部システム」の調節と探察的な運動によって実現するものです。ただし、特に食物摂取は、嗅ぐことと味わうことという二つの注意の様式が共働していて、鼻と口は不可分な仕方で機能していると言います。さらにギブソンは、基礎定位システムを重要な基礎的なシステムとしています。これによって、重力や外部からの力を検知して、身体的平衡状態を実現しているものです。
 このようなギブソンの見方によれば感覚器官は解剖学的な単位ではなく、探索的知覚活動の中で用いられる道具として捉えられることになります。このような道具の使用は、注意の方向を構成するという仕方で身体の運動感覚的な働きの一部を形成しています。つまり、身体各部の位置や運動に関係する自己受容感覚と呼ばれ意識のあり方と密接に結びついて実現しています。
 我々は五感に対応する知覚システム起動させながら活動していて、そのなかで注意を引く対象に対応する感覚のあり方が、その知覚経験のあり方を規定しているという具合に理解することができます。しかし、その感覚も、決して他の感覚から切り離された純粋な視覚であったり、純粋な聴覚であったりするわけでなく、他の感覚と不可分に結びついて成立しています。さらには、五感に対応する「耳-頭部システム」をはじめとしたシステムとして成立しています。そのなかのひとつのシステムが注意の働きを担い、その調節と探索的な運動によって関心のある対象の知覚を実現するときに、感覚器官を導く運動感覚ないし自己受容感覚にも注意が向けられることになり、感覚の働きがごく自然に理解されるようになります。
 このことから、例えば、味覚について言えば、五感すべての感覚が共働して実現するマルチモーダルな経験なのだけれど、日常的には、ひとつの感覚様相とみなされて、他の感覚様相から区別されている。その理由として考えられるのは、食物摂取にける注意の一貫性です。そこには様々な感覚が働いていますが、食物の味覚、つまり、味わいというそのアフォーダンスに対して一貫して注意が向けられていることによって、この活動を導いている感覚が、食物の味を味わうことであるとみなされるという仕組みになっている、と言えます。こうして、感覚の区分とは、その時々の注意の向け方に依存しているのであり、それは同時に経験の中で世界のどのような対象へと応答しているか、ということによっても想定されているのです。これが世界とのコミュニケーションとして実現する身体的世界内存在としての感覚のあり方に他ならないのです。

2019年7月16日 (火)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(6)~第2章 感覚のスペクトル(4)

3.生態学的感覚論─感覚の生態学的要因としての媒質
 感覚は、一般に考えられてきたように、環境から知覚者がさまざまな刺激を受け取る物理的、生理的過程にすぎないわけではないし、また、知覚者が世界についての知識を得るための材料を受け取るだけの過程でもありせん。むしろ、感覚は知覚者が世界から影響をこうむりながら世界へと働きかけるあり方であり、つまり世界とのコミュニケーションの特有なあり方といえます。これが、これまで検討してきたことです。感覚とは何かといえば、身体的な世界内存在の一様態とえます。
 感覚の次元で示される多様なあり方は、すべて自我と世界との関係の中に位置を占めているかぎり、世界内存在のひとつの様態という意味で、原理的に相互に結びついたあり方をしている。しかし他方では、自我-世界関係が多様な仕方で実現していて、相互に還元不可能な多様性を示しています。このような仕方でシュトラウスはそれぞれの感覚様相の連関と区別の両立を明らかにしました。そこで手がかりとなったのは経験に内在的な仕方で現われる世界のあり方です。経験に内在的な観点から、その多様性は、例えば人間関係における距離の違いのもつ意味など、価値や情動にかかわり、文化や社会のあり方の違いが反映すると苦笑もそこに含まれることになるでしょう。他方で、このような感覚におけるコミュニケーションの特徴は、世界との身体活動を介した相互作用として実現している以上、物理的条件や生理的条件と不可分であることも、無視できません。つまり、グライスが掲げた四条件のなかで、物理的、生理的条件としてあげられていた刺激や感覚器官の特質をも考慮する必要があるでしょう。
 ただし、感覚は主体の内部だけで特徴づけられるわけではなく、あくまでも身体的主体と世界との相互作用のあり方として実現するわけですから、物理的、生理的条件と言っても、主体の身体に内在的な条件だけではなく、同時に主体がそのなかで生きている世界との関係のなかに位置付けられる条件を考慮しなければならない。つまり、生態学的な条件としての物理的、生理的条件を考える必要があると言えます。
 ここでは、JJギブソンの感覚論を参照しながらみていきます。
 ギブソンにとって、知覚は主体と環境世界との相互行為のなかで実現する経験であるとみなされます。実質的なところではシュトラウスと似たような仕方で感覚ないし知覚をとらえていると言えます。ただし、ギブソンの場合は、この主体と世界との相互作用がどのような環境世界のあり方によって可能になっているかの解明が中心課題となります。そして、とりわけ、知覚に与えられる刺激に対応する要因として用意されている情報のあり方の解明が重要となります。また、刺激をうけとる感覚器官のほうも、世界との相互作用の中で機能する役割を演じるものである以上、個別の受容器に検定されず、対象と相互作用している身体全体の中で、多くの身体部位と連関する知覚システムとして働くことが強調されます。このような情報や知覚システムを可能にしている環境要因として、媒質という契機をギブソンは持ち出すのです。
(1)アリストテレスの媒質論
 アリストテレスは、感覚を定義するために、対象となるものに備わる特有な性質を提起し、その性質を知覚可能にするために必要な媒質の役割を強調しました。アリストテレスは先行する論者たちが視覚を論ずる際に、視覚の成立を流体や運動する粒子などのような何らかの物理的要因を通して知覚者と知覚対象とが接触することによって可能になる点で共通しており、これでは視覚は、まるで触覚のようになってしまうと批判します。そこで、アリストテレスは、知覚者と知覚される対象との間に距離をつくる何らかの媒質が介在すると言います。視覚の場合、この媒質の役割を演じるのは「透明なもの」だと言います。透明なものは、可能状態、つまり視覚が活動していないけれどいつでも活動できる状態、である暗闇の状態から光によって変化し活動実現状態、つまりまさに視覚が活動している状態、となり、視覚の固有対象である色と本質的な関係を持つことになります。色は、活動実現状態にある透明なものを動かすことによって見られうることになるからで、この理由によって、色は光のない状態では見られることはできないことになります。アリストテレスは、この媒質モデルを視覚以外の感覚様相にも拡張します。聴覚の場合には弾性体としての空気や水であり、匂いの場合も似たようなものです。
 アリストテレスがこのような媒質を必要としているのは、感覚器官の上に直接置かれた知覚できないからです。ここで前提となっているのは、どんなものにも「形相」と「質料」からなるというアリストテレス特有の考え方です。そこで知覚が可能と駆るためにはものの形相と質料が分離され、形相のみが受け取られ、感覚器自体がこの形相によって対象と同じ活動状態になる必要があるという考え方です。人間(を含めた動物)は、対象の質料から切り離された形相のみを受け取って、それに対応した活動実現状態に、つまり知覚するということです。
 これについて、19世紀のブレンターノは質料抜きの形相の受け取りという考え方に志向性という概念の起源を見出しています。例えば、冷たい水に触れて、水を冷たく感じることと身体自身が冷たくなること、それぞれの場合を区別する必要性を強調します。冷たい水によって冷たくなることは、どんな物体でも生じることであり、対象を冷たいものと感じることではない。換言すると、感覚器官が感覚現象を成立させるためには、対象によって感覚器官が直接触れられるような仕方で物理的(質料的)に影響をこうむるのではなく、そのような影響から距離をとって、対象が現われるあり方を可能にするのが、意識に備わる志向性という働きです。そのように考えると、アリストテレスの媒質は志向性を可能にする役割を担うと考えてられることになります。

2019年7月14日 (日)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(5)~第2章 感覚のスペクトル(3)

2.感覚のスペクトル
(1)自我と世界のコミュニケーションとしての感覚
 ドイツの精神病理学者シュトラウスは『感覚の意味について』のなかで、感覚を認識の観点からとらえる伝統的な見方を批判し、感覚を主体(自己)と世界とのコミュニケーションとして解釈する見方を提起しました。ここでシュトラウスが強調するのは、感覚するとは単に認識することではないという点です。世界と主体は別々にあって、それを認識するというのではなくて、感覚の次元で登場する世界は主体を引きつける力を持った対象や主体を脅かす力を持った対象等価値的性質をもったものに満たされている。つまり、主体にとって、恐ろしいとか欲しいとかいったように対象に対して何らかの関係をせざるを得ないものということでしょうか。したがって、感覚はつねに情動的ならびに身体的自己運動と不可分な関係にあります。もうちょっと詳しく言うと、感覚するという経験が行われている次元ですでに、自我は最初から世界の中に存在し、世界と切り離しがたい相互関係のなかにあるとみなされます。それゆえ、感覚経験は多様な仕方で実現しますが、自我と世界との両極をもった仕方で統一するあり方のひとつとして実現するのだから、感覚の次元を超えたなんらの統合作用(思考のような知的作業など)を必要とするわけではないのです。

(2)感覚のスペクトル
 例えば、焚き火をしている場面を想定してみましょう。我々は、焚き火を前に、その炎の明るさを見ながら、ぱちぱちという燃える音を聞いています。また、炎から発せられる熱を感じ、そして、煙の匂いを嗅いでいます。さらに、やけどをする危険をおかせば、炎に触れることもできます。ここで、見られた火から始まって、聞かれた火、熱を感じた火、嗅がれた火、そして触れられた火まで、感覚様相の違いに応じて、対象の現われ方は大きく異なっています。対象に関しての知識を得るということだけなら、どのような感覚様相を介してであれ、「それは火である」「そこに火がある」という獲得された信念内容、あるいは知識内容は、ほとんど変わることはないでしょう。しかし、生活の中での火の持つ意味を考えると、見られた火と触れられた火とでは、その意味と価値は大きく異なってきます。多くの子供は、やけどを負うことによって、この違いの意味を身をもって学ぶことになります。
 感覚の意味は単なる感覚的性質を意識にもたらすことにあるのではなく、感覚することによって、我々は世界と世界に関わる自分自身を経験するのであり、それぞれの感覚様相に応じて、自己の身体に関して特有の仕方で気づくのです。視覚経験では、相対的に自己の身体との関係が離れてしまうことがありますが、触覚経験では自己の身体との関係は密接だということをやけどの体験が教えてくれます、感覚様相ごとに、世界へのかかわり方が異なります。
 シュトラウスは、感覚によるコミュニケーションのあり方の違いを二つの要因により性格付けようとします。ひとつは、何らかの対象に向かうという意味で志向的要因とみなされ、対象に気づくことが主となります。もうひとつは対象から影響を絞るという意味でパトス的要因と特徴づけられ、自己の身体を経験することが焦点化されます。シュトラウスによれば、これら二つの要因のどちらが顕在化するかによって、そして、両者が結びつく仕方が異なることによって、それぞれの感覚様相の特徴が規定されると言います。視覚に現われる燃えさかる焚き火の火は、絵画に描きたくなるような美しさを示すかもしれません。他方で、不注意に触れてしまった焚き火の火は、苦痛をもたらし、場合によっては命を脅かすことになるかもしれません。このように、視覚に現われる火と触覚に現われる火とは、簡単に同じ対象と呼ぶことをためらわれるような違いを持っています。この違いは、単に対象との距離といった量的な差に還元できるものではない。このような多岐な要因を含んだ個々の感覚様相の間の違いと連関を、シュトラウスは感覚のスペクトルと言います。
 これについた著者は、対象を「いかに」感覚的に経験するかの違いが、「なにを」経験するという対象の意味や価値のあり方に大きな影響を与えていたことを示していると考えられると言います。この意味で、シュトラウスは、「なにを」の契機と「いかに」の契機の不可分性を強調している。このような点で、シュトラウスのあげる二つの要因は、「なにを」と「いかに」という知覚経験の二つの側面に対応していると考えられると言います。「感覚のスペクトル」とシュトラウスが呼んだ構造は、色彩のスペクトルが色相に関してそれぞれ相互に還元不可能でありながら、類似性に関して相互に比較可能な仕方で並べられているように、個々の感覚様相は独立してその意味をもっているというより、感覚様相のあいだで、それぞれ相互に還元不可能な意味をもちながら、志向的要因とパトス的要因との組合せという点で比較可能な連関をもつようなあり方を示しています。
 人間関係にもこのような特徴は意味を持ってきます。視覚の地平の中で、我々は共通して何かに立ち向かうことができるのです。持続を通しての共働活動のあり方が典型例です。それに対して音は、音源から切り離されると、空間を満たし、その場の人々すべてを包み込むことができ、人々を現在という時間的性格を強く持つ共有の体験に結びつける働きをすることができます。他方で、触覚の場合には、直接的な相互性という性格を持つために、共同性を二人のパートナーへと限定することになります。つまり、第三者を排除し閉じられた緊密な関係を作り出すことになります。
 シュトラウスは次のように言います。
 「感覚様相のどれひとつとして、ただひとつの調べをもった系列の中で実現しているわけではない。実際、それぞれの様相において、自我-他者関係という基本テーマが特有な仕方で以下のように大きく異なった様相を呈する。視覚においては持続的なもの、聴覚においては現在性、触覚においては相互性、嗅覚や味覚の領域では相貌的なもの、痛覚においては権力関係といった具合に、それぞれの特徴が支配的になっている。」
 どの感覚様相も、自我と世界とのコミュニケーションというあり方の一側面を示している点で、最初から全体へと結び付けられ、相互に連関しています。世界の中に現れています。しかしそれぞれの現われ方は、あくまでも全体としての自我-世界関係の部分アスペクトであり、それぞれが相互に還元不可能な多様な仕方で特徴をしめしています。シュトラウスは、このような意味での「全体的である」あり方を「非-全体」とも呼び、つねに補うことができ、補う必要のあるあり方をする全体だけが統一しうるのだと述べています。このような点で、シュトラウスもまた、全体がつねに一面的な仕方で現われるというあり方のなかに、感覚様相の違いと連関が成立していると考えています。

2019年7月12日 (金)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(4)~第2章 感覚のスペクトル(2)

(2)皮膚によって見ること、あるいは音によって見ること
 続けて、グライスの四つの規準の残りについてです。感覚という言葉を人間に限ることなく、動物の場合も含めるとすると、コウモリやイルカのエコロケーションという知覚方法は自ら超音波を発して、それが何かに反射して跳ね返ってくる反響音を聞くことで対象を検知するのとか、ミツバチは紫外線に反応して色を識別したりと、グライスの第二の規準を用いることができないケースが出てきます。
 第三の規準では、視覚は光刺激に対する反応であり、聴覚は空気震動に基づく刺激に対する反応ですが、それが第二の基準である視覚は眼による感覚であり、聴覚は耳による感覚というのを考慮に入れない限り一般には受け入れられない。それは、実際には感覚代替システムという事例がそのことを示しているといいます。たとえば触覚による視覚代替システムという装置では、光刺激を検知するテレビカメラと、その刺激を変換して皮膚に置かれた格子に小さな針の振動する触覚ディスプレイで情報を伝えるものです。眼の不自由な人は、テレビカメラを頭に、触覚ディスプレイを腹または背中に装着して、様々な対象を「見る」ことができるようになります。これを装着した人は触覚ディスプレイは透明化し、視点はカメラからの視点である頭上に移動するそうです。この装置によって可能となる経験は「皮膚による視覚」と呼ばれます。では、この装置は皮膚なのか眼なのかということ、装着者にとってどちらの刺激が決定的かというのは、その人が何を、どのように経験しているかを確認できなければ分かりません。しかし、このような見ることなのか触覚で感じることなのかという一義的に決められるので使用か。むしろ、この場合は技術によって作られた新しい感覚様相と言えるかもしれない。このようにして、感覚様相を定義するには経験の次元が不可欠であり、同時に他方では物理的次元も消して無視できない。ただし、ここでいう物理的条件とは、それらに適応し、それらを刺激という役割や感覚器官という役割、さらには脳という情報処理器官として、知覚経験をもたらす連関に取り入れることができる限りで意味を与えられる条件であり、知覚主体と無関係に特定できるものではありません。感覚代替システムやエコロケーションの事例が示しているように、主体が経験する仕方は主体がどのように外的、内的な物理的条件に適応し、それらをいわば身体化しているかに対応しているのです。感覚代替システムは当初は触覚的刺激を皮膚に伝える装置だったのが、次第に身体の延長と化して、刺激の現われ方も変化し、感覚器官のあり方も変化しました。したがって、感覚器官や刺激の特質等物理的、生理的な条件は、それだけをとれば、どのような経験がなされているかという感覚のあり方を決める上で、決定的な条件になっているわけではないのです。
 これは次のようにまとめることができます。世界がどのように現われ、我々が世界をどのように経験しているのか、というあり方は、我々が世界の中にどのような仕方で物理的、身体的に内属しているのかということと無関係ではありません。無関係ではないどころか、本質的に関係しています。ただしその関係のあり方は、あくまでも「身体的な世界内存在」の一形態として実現するその時々の知覚経験のあり方を可能にするという関係に登場する限りでの話です。このような意味で、感覚を身体的世界内存在のあり方としてとらえる見方は、感覚が物理的世界のなかにどのように実現しているのかについての解明を重要な課題のひとつとしているということになります。
 この議論が示しているのは、感覚を特徴づけるためには、伝統的に取り上げられてきた四つの規準のひとつだけを選ぶ必要はないし、また選ぶことはできないということです。換言すると、感覚は多次元的な仕方で決定されているトム考えた方がよいということです。
 しかしだらといって、事実として長い間ごく自然なものとして理解され、用いられている区分に全く意味がないと思えません。むしろ日常的な経験の中で自然な形で理解されているあり方の中に、感覚の区別と連関を理解する手掛りがあると考えることもできるかもしれません。そうした観点から、二人の見解を次に見ていきます。

2019年7月10日 (水)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(3)~第2章 感覚のスペクトル(1)

1.感覚の個別化
 感覚をあらわすために、しばしば五感という言い方がなされます。しかし、それは人間に五つの感覚が備わっているということなのでしょうか、それともアリストテレスを嚆矢として感覚を五つに区分するのは説明するのに都合がいいからなので、そうするようになったのでしょうか。
(1)H・P・グライスの四つの規準
 言語学者であるグライスは、「感覚についてのいくつかの所見」という論文で感覚様相を定義する規準として次の四つをとりあげました。①知覚の対象が持つ色や音等が持つ色や音等の固有の性質、②見ることや聞くことなど、知覚経験に内在的に備わる固有な特徴、③光や音波など、知覚を引き起こす刺激の性質、④眼や耳など、感覚器官の種類、といったことです。それぞれの規準を見ていきましょう。第一の規準はアリストテレスの考えにおおむね対応していると言えます。「感覚は、それを介してわたしたちが意識することになる様々な性質によって区別される」。たとえば、見ることは、対象の色とかたちと大きさを持つものとして知覚することとして規定され、聞くことは、対象を音の大きさ、高み、音色を持つものとして知覚すること、などのように規定されます。しかし、たとえば、ものの形や大きさは、視覚によっても触覚によっても捉えることができます。知覚対象としての性質のなかには。ひとつ以上の感覚によって捉えられるものがあるため、対象となる性質を示しただけでは、感覚のあり方を一義的に確定できないということになります。また、逆に疑問も生まれます。たとえば音は、大きさ、高さ、音色によって構成されているわけですが、この三つの要素にそれぞれ異なった感覚が対応しているとみなされることはありません。聴覚は、これら三つの感覚の複合体とはみなされず、ひとつの感覚としてみなしています。それはどうしてなのでしょうか。それは第二の規準と関係してきます。この規準は経験に備わる現象的性質とかクオリアと呼ばれているものに相当するものです。しかし、たとえば、見ること、ないし見ているという「感じ」し、嗅ぐことないし嗅いでいるという「感じ」とを、見られたものや嗅がれたものへの言及なしに区別することができるでしょうか。経験の内的性質を捉えようとしても、そこで見出されるものは、刑権に現われた対象のあり方であり、対象の性質と区別された内観的特徴を見出すことは容易ではないのです。そこで、グライスによると、結局のところ第一の規準と第二の規準は同じことで、それぞれが独立して働くことはなく、不可分でありながら、他方では両者の区別の可能性も認めています。そのことによって第二の規準の重要性を主張します。著者は、グライスが取り上げているのは、結局は、知覚における「なに」の契機と「いかに」の契機を独立したものとみなすことはできないことだと言います。第一の規準と第二の規準は独立しては意味を持たないのであり、感覚を特徴づけようとすると、感覚されるものと感覚することという密接に関連した二つの要因を必要とすることになります。

2019年7月 7日 (日)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(2)~第1章 知覚のマルチモダリティ

1.マルチモダリティを示す諸現象
 まず最初に概念規定から、マルチモーダルとクロスモーダルを区別します。クロスモーダルという言葉は、異なった感覚様相に属する現象同士が相互作用する点を強調する場合に用いられ、マルチモーダルという言葉は、ある知覚現象が、ひとつの感覚様相で規定しうるものではなく、根本的に多くの様相が連関して成立する総合的な現象であることを強調する場合に用いられている概念です。しかし、結局は、同じ現象のどのような特徴に注目するかによって、二つの言葉づかいが分かれるようなものと言えます。
 著者はいくつかの事例を取り上げて説明していますが、錯覚という現象に注目することになります。ゲシュタルト心理学の場合が典型的ですが、知覚現象の特徴を示すために錯覚現象が用いられてきました。ゲシュタルト心理学は、全体が要素の和に還元できないことを示すために、例えば、カニッツァの三角形のように、図形の配置の仕方に応じて、実在しない輪郭が「見える」現象が取り上げられます。個別的な感覚様相のたんなる和としては説明できず、全体として新たな特徴が生じることを印象深く示すものです。ゲシュタルトの原理は、錯覚現象の説明に用いられるだけでなく、日常的な知覚現象の基本構造を形成する原理とみなされています。マルチモダリティも同じように原理としてみることができるのではないか、これが本書のテーマです。
2.メルロ=ポンティ/ヘルダーのテーゼ
(1)メルロ=ポンティのテーゼ
 メルロポンティの描く視覚世界は、けっしてひとつの感覚様相によって近づきうるような世界ではなく、本質的に、相互感覚的でマルチモーダルな性格を持つ世界です。したがって、そのような世界を知覚する主体の側も感覚様相が別々に機能し、異なった感覚様相から多様な感覚が与えられ、そのうえで、それらを思考の働きかけがまとめるようなあり方をするのではなく、感覚の次元ですでに、異なった様相同士が交流するようなあり方をするとみなされています。
 以下に、代表的なテーゼを引用しています。
 「単独の感覚による知覚経験というものが考えられるとしても、それは分析の結果、成立する根源的な知覚においては、触覚と視覚との区別は知られてはいない。人体についての科学が、そのあとで、われわれに、われわれのさまざまな感覚を区別することを教えるのである。体験された物は、さまざまな感覚所与をもととして、再発見されたり構成されたりするのではなく、それらの感覚的所与が輝き出る中心として、一挙に示されるのだ。れわれは対象の奥行きや、ビロードのような感触や、柔らかさや、硬さなどを見るのであり─ソレトコメカ。セザンフに言わせれば、対象の匂いまでも見るのである。」
 つまり、物は最初から、相互感覚的あるいはマルチモーダルであり、感覚の多様なあり方は統合された全体の中で一挙に捉えられる。
 「単独の感覚による知覚経験は実在を示さない。もしもある現象が─たとえば、反射光にせよ風のかすかなそよぎにせよ─、わたしの感官のひとつにしか与えられないならば、それは幻影にすぎない。それが現実の存在に近づくのは、たとえば風が激しく吹き荒れて、風景の動揺として眼に見えてくるときのように、この現象がたまたまわたしの他の感官にも語りかけることが可能になる場合のみだろう。」
 もし視覚にしか現われないような対象があるとすれば、それは幻影だと。実在として受け取れるのは、その音が聞こえ、匂いを感じさせるとだ。
 「物が相互感覚的統一体であるのと相関的に、知覚者の側でも、それぞれの感覚器官は最初から統一し、共働するような仕方で統合されている。相互感覚的な対象が視覚的対象に対するのは、この視覚対象が複視の単眼像に対するのと同じであって、二つの眼が視像のなかで協力するように諸感官は知覚のなかでたがいに交流し合うのだ。音を見たり色を聞いたりすることが実現されるのは、まなざしの統一が二つの眼を通して実現されるようなものであり、それというのも、わたしの身体が並置された諸器官の総和ではなく、その全機能が世界内存在という一般的運動のなかで取り上げ直され、互いに結び付けられているひとつの共働系だからであり、実存の凝固した姿だからである。」
 複視の事例をモデルにして複数の看過器官の連関するありさまを説明しています。知覚の統合は思考によるものではなく、視線の向け替えという身体的行為によることだとしています。したがって、メルロ=ポンティによれば、感覚とは相互感覚的に成立する全体としての身体的な世界-内-存在の一形態だということになります。それらを踏まえて、著者はメルロ=ポンティのテーゼを次のようにまとめます。
  Ⅰ:私たちの知覚経験は、基本的にはマルチモーダルないしは多感覚的である。
  Ⅱ:知覚経験の対象はマルチモーダルないし多感覚的性格をもつ。
 このテーゼに著者は、ひとつの問題点を指摘します。ふつう我々は知覚経験を理解するときに、それが視覚なのか、聴覚なのか、あるいは触覚なのか、区別がつかないような仕方で経験しているとは思っていないからです。例えば、ガラスが割れるときに、その出来事が現われるあり方は、視覚によっても聴覚によっても、そして場合によっては触覚によっても捉えられますが、だからといって、感覚様相の区別がつかなくなるような仕方で経験しているとは思わないでしょう、ガラスが割れるのを見ることと、その音を聞くこと、さらには、割れたガラスの破片で手に怪我をして痛みを感じる場合などを比較すれば、経験の仕方は大きく違ってきます。つまり、一方では、日常的知覚経験は基本的にはマルチモーダルです。しかし他方、それぞれの知覚経験は、感覚様相に固有のあり方を示しており、それらを他の様相へ置き換えることはできないのです。
(2)ヘルダー/ウェルナーのテーゼ
 ヘルダーは言語の起源を神の創造という見方を批判し、他方で動物の鳴き声のみを起源とする見方も批判しました。彼は、人間には動物には欠けている理性が備わっているとし、この理性の働きが言語の働きに現われていると考えました、その理性の働きとは、人間に備わる感覚的生のあり方から切り離されているのではなく、感覚的生のあり方と共働して言語を生み出すと考えました。その理由をヘルダーは次のように説明します。言語の発生の原初形態は、音声と対象との結びつきにあると言います。かれによれば、言語の発生の原初的、音声と対象との結びつきにあるといいます。例えば、羊はいつもメーメーと鳴くので、我々はメーという鳴き声によって羊を特定できるようになると言います。つまり、「メー」という音声が対象の標識の役割を持つようになり、ここに言語の原初的形態が成立するというのです。しかし、すべての物が音声を発するわけではなく、ヘルダーは感覚の根底には触感(触覚的感覚)があり、この他の感覚と緊密に結びついていて、そのために単に見られるだけの対象も、触感を通して聴覚的要素と結びつき、原初的言語を獲得することができるといいます。
 ヘルダーは、感覚相互の結びつきは人間にとって不可避なものであることを強調します。しかも、その結びつき方は、理性によって理解できるようなあり方をするわけではないのです。しかも、理性を形成する言語が、その非理性的な感覚に基礎付けられているというのです。
 一方、ウェルナーは『発達心理学入門』で原始的な心的活動の特徴を未分化な複合的性格に見出しています。次のように言います。
 「見る、味わう、嗅ぐといった個々の感覚領域は、原始的水準では未分化で、それらのあいだには非常に密接な関連があるように思われる。通常の心理学では<共感覚>という用語を、ある特定の刺激が、それに特殊的に対応した刺激を引き起こすのにとどまらず、その感覚と複合をなしているほかの感覚をも引き起こすという意味に用いる」
 ウェルナーは、このように述べた上で、共感覚が成立する条件を取り出していきます。ここから著者はヘルダーにもどり次のようなテーゼにまとめます。
 Ⅰ:マルチモーダルである感覚のあり方は感覚の未分化という根源的、原初的なあり方を示しており、分離したあり方は、未分化な根源的、原初的なあり方をもとにして、そこから発達し、分離・抽象が進んだ結果である。
 Ⅱ:したがって、大人の日常的な知覚において原初的な<共感覚的>知覚を実現しようとするには、一定の条件のもとで、原初的なあり方が再生されねばならない。
 ここから、我々の知覚経験がマルチモーダルであり、個別的様相を示しているという二つのあり方は、知覚の発達段階の違いに対応するということで矛盾を解決できることになります。しかし、これでは不十分だと著者は言います。そこで、月からは、日常的感覚に見られるこの特徴を考えるために、感覚様相の分離がどのような特徴を持つかを見ていくことになります。

2019年7月 5日 (金)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(1)~序章 味わうという多次元的で相互浸透的な経験

 最初に、これから議論していくキーワードの概念説明を行なってくれます。
a.五感
 五感とは、言うまでもなく、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五つの感覚です。そして、これらの感覚は、それぞれ眼、耳、鼻、口、そして身体を覆う皮膚といった感覚器官を通して感覚していると考えられています。これら、それぞれの感覚は独立して働いていて、それぞれの感覚の特徴である光や振動といった特定の刺激にのみ反応する特定の感覚器官があって、それぞれの器官から受け取った情報を伝達する特定の回路が脳の特定の部位に情報が到達すると視覚意識や聴覚意識が成立すると考えられています。これは感覚の恒常仮説と呼ぶ分析の便宜ということができるとして、著者はさらに広く要素主義という言い方をします。そして、この著作は要素主義批判を、その主要なテーマとしています。
b.知覚経験のマルチモダリティ
 著者は、五感と呼ばれる各々の感覚が単独に働くのではなく、相互に影響を及ぼしあったり、あるいは結びついたりして働くものであると言います。例えば、風邪を引いて鼻が詰まってしまったときには、食べ物の味が分からなくなる経験をした人は少なくないと思います。あるいは闇鍋などといって暗闇の中で食事をすると、何を食べているか分からないだけでなく、味も分からなくなるという経験をすることがあります。このような経験は、味の味覚経験が、嗅覚や視覚と密接に結びついて成立していることを示しています。じっさいのところ、我々が味覚として意識している内容の大部分は嗅覚に基づいていると言われています。これを著者はマルチモーダルな多感覚現象という呼び方をします。
c.味わいの経験
 例えば、我々が通常食べ物の味として理解しているものは、狭い意味での舌のせんさーに基づく味覚のみによるのではなく、味覚と嗅覚が相互作用した結果として成立する風味と言う。こういう言い方にも要素主義がふくまれていると著者は言います。つまり、風味を感じるという言い方については、味と匂いの相互作用ということになります。その場合、それぞれの感覚器官では味覚や嗅覚に対応する刺激がそれぞれ別々に生じていて、その刺激がそれぞれ独立に脳まで到達したのでは、風味のような新たな感覚的性質の知覚は生じないので、脳のどこかに両方の径路が交差して相互作用が生じる場所がある。そこで相互作用としての風味が成立する。そういう言い方です。これはデカルトの松果腺を介した精神と物質の相互作用という神話的な語り方の再現にとどまると言います。著者は、これに対して、味や匂い、そして風味を感じるのは脳のなかではなく、口の中の食物の性質としてといいます。つまり、食べ物を口の中に入れてから、口の中で舌や歯を使って咀嚼し、飲み込むまでの味わいの過程として実現する経験が、口を中心として、様々な感覚をフル活用することを通してひとつの対象の味を味わっている、マルチモーダルで多感覚的な過程であるということになります。
 このような味わいの経験をモデルとして近く経験を考えるとすると、知覚経験は五感をフルに活動させてはじめて成立するものだということになり、知覚の主体とは、そのような五感を兼ね備えた主観、つまり、五感を統一的に備えている身体的存在ということになります。
さらに進めると、知覚の対象は、主体に対峙したあり方をしているのではなく、主体とのかかわりのなかでその姿を現わすあり方をしているということになります。生態学的心理学で用いられる言葉を使うと、知覚の対象はアフォーダンス(行為との不可分な関係をもつ性質)を備えたものとして現われてくるということもできます。このとき世界は、知覚主体がそのなかで活動しうる場として現われており、この意味で、知覚経験とは、知覚主体が身体的な世界内存在を実現しているあり方を示すものだと考えることが出来ます。
d.知覚と感覚
 知覚と感覚についてのオーソドックスな見方のひとつは、知覚は下界の認知のあり方を実現する機能であり、感覚は対象からの情報を受け取り、知覚の働きに材料を提供する役割を果たしているというもの。著者は、これらを一定の認識論的関心や存在論的関心に基づく、例えば要素主義を前提とした見方としていて、本書では、そうではなくて知覚と感覚は同じひとつの経験の二つの側面を表現する言葉であり、知覚経験を問題にする観点の違いに対応する言葉として用いるとしています。
 例えば、焚き火を囲んでいるような場合を想定してみると、目の前の焚き火は赤々と燃えながらかたちを変えるという姿をとり、ぱちぱちと音を立て、煙の匂いを発し、さらには、暖かさが感じられ、場合によっては火の粉が飛んできて熱さややけどしそうな痛さも感じたりするかもしれません。これらの多様な現われ方は、視覚、聴覚、嗅覚、触覚などに区分されるかもしれませんが、どれも火の知覚です。したがって、火を異なった感覚として区分する場合には、何を知覚しているか、だけでなく、どのように知覚しているかを問題にしています。このどのように知覚しているかというあり方に対応する特徴を感覚的要因と著者は呼びます。知覚は、何をという要因とどのようにという要因のふたつの要因ないと局面(アスペクト)を持っている経験と言えます。
 このような仕方で感覚を理解することは、分析的に特徴を捉えるというのではなく、知覚経験あり方に即して、その「いかに」経験されているかが示す特徴を捉える試みです。それを著者は現象学と捉えます。つまり、経験の対象そのものを、対象の現われ方、つまり経験の中で対象がいかに現われているかを問うことにあるという方法です。
e.生態学的現象学
 本書は、フッサールやメルロ=ポンティの現象学とギブソンなど生態学の両者の見方にもとつづいています。
現象学では「世界」という言葉が使われる場合には、まずは、我々が日常生活をそのなかで送っている世界、それかぜ知覚世界として現われている。他方で、我々になじみのこの知覚世界の現われ方も、原生人類が世界へ適応する長い歴史の中で獲得してきたものであり、さらには、人類が誕生する以前からの長い生命進化の歴史の過程を経て獲得してきたものです。この意味では、現在、我々が享受している多様な感覚を通して現われる世界のあり方は、生物としての人間が世界にどのように適応してきたか、そして現在、適応しているか、そのあり方を色濃く反映したものになっているということができます。
f.射映と注意
 われわれの体験する知覚はマルチモーダルだというのが本書の基本テーマです。しかし、同時な我々は自らの知覚経験を表現するときは、見るとか聞くなど、個別的な感覚様相に対応した言葉を用いています。つまり、知覚経験は基本的にマルチモーダルでありながら。他方では個別的な感覚様相のもとで経験され表現されています。この二つの側面について、本書では味わうという経験を典型例として取り上げてみていくことになります。食べ物を味わうプロセスでは、全体としてはマルチモーダルな特徴を持つ食物が現われながらも、その都度視覚的様相や嗅覚的様相の側面に注意が向けられ、ほかの感覚様相の側面が隠れる、といった具合に経験がすすんでいくと表現してもいいのではないかというのです。このモデルをフッサールの射映概念の拡大版として用いています。似たような概念に注意という志向性という性格を反映した概念もあり、これらを用いて感覚様相の区別と連関を捉えようというのが、本書の議論です。

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