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2019年7月23日 (火)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(9)~第2章 感覚のスペクトル(7)

5.生態学的現象学の観点から
 知覚経験はマルチモーダルでありながら、その都度固有な感覚様相のあり方を示すことを、どう理解するか。それを、シュトラウスとギブソンを手がかりに考えてきました。両者のアプローチには違いがあり、敢えて単純化すれば、ギブソンは知覚の「何を」という側面に焦点をあわせたのに対して、シュトラウスは現象学的な「いかに」に焦点をあててきた。そこで著者は両者が補い合うような結合、つまり生態学的現象学を模索します。
(1)感覚の部分的等価性
 知覚経験における「なにを」という側面と「いかに」という側面の二重面的な性格を見ていこうと言います。例えば、我々が異なった感覚様相を通して同じ対象を知覚的に経験している。例えば、同じ火を見たり、熱さを感じたり嗅いだりしている。この場合、異なった種類の知覚システムを等価とみなしています。これはギブソンの議論ですが、このときシステムの間に違いがあるとしても、それはそれぞれの様相でピックアップされる情報の詳しさの程度の差に還元されます。
 他方で、例えば、我々が火を見ている場合、火は多様な色とかたち、それらの変化する姿などをまとって現われます。例えば、この場合の色は、色一般として現われているのではなく、火が現われる場合に示す特有の色のあり方をともなって現われています。火の色の現われ方のモードはカッツの導入した概念で光輝色というあり方を示しているといいます。それは物の色である表面色やスペクトル光の示す面色などとは明らかに異なった現われ方をしています。それに対して、火のかたちは定かでなく、姿を変幻自在に変化させながら、それに触れることはできない、ないしは触れると痛みをもたらすようなあり方をするものとして現われています。それは表面色とは異なった触覚的性質といえます。このような仕方で火という情報は色の特定の現われ方のなかに具現しているということもできます。光輝色と表面色の違いと言えるでしょう。
 この例を知覚経験のマルチモーダルな性格という観点に拡大して考えてみると、カッツの述べる色彩の多次元性は、色彩に現われるマルチモダリティであると同時に、対象が主体に対して持っているアフォーダンス(意味づけ?)が示されていると考えられます。消防自動車の赤のような表面色は、そこに抵抗を見て取ることができるという点で触覚的要素を示していると同時に、硬い表面のもつアフォーダンスが示されています。他方で、火の赤は不安定な光の動きによって触覚的意味が示されると同時に、それに触れると痛みを感じさせ、危害をもたらすようにアフォーダンスが示されるということができます。この意味で、色彩の多次元性の内実を構成しているのは、対象のもつ多感覚性、つまりマルチモダリティを意味していると同時に多様なアフォーダンスが示されていると言えます。
 ギブソンは、この多様なものを連合するのではなく、区別するのが知覚の問題であると言います。これは光輝色という見え方だけでなく、音や他の対象でも同じようなことが、つまり多次元的に起きているといいます。我々が各々の感覚様相において火に対応する現われ方のような特定の現われ方を見出すことができるとするなら、異なった感覚様相を横断して対象の同一性を理解可能にする要因は、共通した核のようなものではなく、それぞれの感覚的現われ方に備わる多次元性ということになります。知覚経験の「何を」の側面が「いかに」の側面と切り離しがたく結びついているからには、異なった感覚様相を横断して経験される同一性は、同一の中核が存在するというのではない。したがって、知覚経験の対象の同一性は、経験の外部で前提されたり、決定されたりするものではなく、経験を通して、その内部でその現われ方に即して構成されるものとみなされねばならない。シュトラウスによれば、知覚経験の対象としての全体性は、つねに補足を必要とすると同時に補足を可能とする仕方でしか登場しない「全体」、つまり「非-全体」だからです。そして、マルチモダリティという特質によって、対象の同一性はその現われ方に内在的な仕方で捉えることができるのです。
 したがって、知覚はどの様相のもとで実現する場合であっても、部分的には等価なのだと言えます。見られる火、触れられる火は、感覚様相の違いに応じてそれぞれ違ったものいいたくなるほど異なった現われ方を示すと同時に、他方では視覚的に現われた火の色の現われ方の中に、その音や暖かさや匂いもそして触れる官職への連関が示されている、と言えます。
(2)痛みをともなった感触
 ギブソンは、痛みは対象の危険性を意識化するうえで有用なものであることを認めています。例えば火の危険はやけどをした痛みによって知ることができます。それ対象の価値評価を含み回避行動を喚起する機能で、生きるために不可欠です。にもかかわらず、他方でギブソンは、痛みは観察者の身体のみに関係し、世界との知覚的関係からは切り離されたものであることを強調します。このふたつは矛盾しているように見えます。
 前者は、痛みというのは身体にとっては有害で避けるべきことを示す情報であるが、それのみでは環境についての知覚をもたらすことはない。それに対して、痛みをともなう接触により、触覚的知覚が成立しているために、環境の情報得ることができるということです。
 これに対して、後者は痛みは知覚に干渉する、あるいはその妨げになることが強調されます。シュトラウスも、この後者の点を強調しますが、そうであるとすると、痛みは感覚のスペクトルの中でも、他のさまざまな感覚と単純に並列することができないことになります。痛み以外の感覚は世界との関係を可能にし、我々に様々な知覚的世界を開示してくれます。それに対して、痛みの感覚の機能は、世界との関係を妨害し、世界へのアクセスをむしろ閉ざしてしまう傾向を持つからです。しかしながら、世界との妨害された関係もまた、あくまで世界との関係のなかで生ずるものであり、世界との関係の多様性に応じて妨害されたあり方も多様です。その多様さは主体が世界ならびに世界の中の対象とどのような関係を結んでいるかに依存しているからです。これらのことから、痛みの経験を単純な知覚経験の一種のように性格づけることはできないとして、著者は痛みの特殊性を強調します、次からは、それぞれの感覚がマルチモーダルでありながら、固有の特徴を示していくのを見ていきます。

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