村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(10)~終章 世界に住み込むということ
本書では知覚経験は多感覚的でマルチモーダルであることを示すとともに、五感についてそれぞれマルチモーダルであることを見てきました。そこで出てきたのが視覚中心主義への批判です。現代の我々の世界と生活は視覚中心主義になっている。実際のところ、多くの人々が一日の大半の時間をスマートフォンとパソコンの画面を見て過ごしているわけです。
そこで、視覚中心主義は、そもそもどこから来たのかを探っていきます。
著者が、たどり着いたのはアリストテレスです。『形而上学』のなかで、人間というものは、もともと感覚とくに視覚を好む。それは効用を求めてとかいうのではなくて、感覚すること自体が好まれるといいます。とくに視覚なのは、他の感覚より物事についてよく分かると、より詳細な知を得られるからだといいます。理性的動物としての人間の本性である知への愛を視覚は具現しているというわけです。
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