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2019年7月 5日 (金)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(1)~序章 味わうという多次元的で相互浸透的な経験

 最初に、これから議論していくキーワードの概念説明を行なってくれます。
a.五感
 五感とは、言うまでもなく、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五つの感覚です。そして、これらの感覚は、それぞれ眼、耳、鼻、口、そして身体を覆う皮膚といった感覚器官を通して感覚していると考えられています。これら、それぞれの感覚は独立して働いていて、それぞれの感覚の特徴である光や振動といった特定の刺激にのみ反応する特定の感覚器官があって、それぞれの器官から受け取った情報を伝達する特定の回路が脳の特定の部位に情報が到達すると視覚意識や聴覚意識が成立すると考えられています。これは感覚の恒常仮説と呼ぶ分析の便宜ということができるとして、著者はさらに広く要素主義という言い方をします。そして、この著作は要素主義批判を、その主要なテーマとしています。
b.知覚経験のマルチモダリティ
 著者は、五感と呼ばれる各々の感覚が単独に働くのではなく、相互に影響を及ぼしあったり、あるいは結びついたりして働くものであると言います。例えば、風邪を引いて鼻が詰まってしまったときには、食べ物の味が分からなくなる経験をした人は少なくないと思います。あるいは闇鍋などといって暗闇の中で食事をすると、何を食べているか分からないだけでなく、味も分からなくなるという経験をすることがあります。このような経験は、味の味覚経験が、嗅覚や視覚と密接に結びついて成立していることを示しています。じっさいのところ、我々が味覚として意識している内容の大部分は嗅覚に基づいていると言われています。これを著者はマルチモーダルな多感覚現象という呼び方をします。
c.味わいの経験
 例えば、我々が通常食べ物の味として理解しているものは、狭い意味での舌のせんさーに基づく味覚のみによるのではなく、味覚と嗅覚が相互作用した結果として成立する風味と言う。こういう言い方にも要素主義がふくまれていると著者は言います。つまり、風味を感じるという言い方については、味と匂いの相互作用ということになります。その場合、それぞれの感覚器官では味覚や嗅覚に対応する刺激がそれぞれ別々に生じていて、その刺激がそれぞれ独立に脳まで到達したのでは、風味のような新たな感覚的性質の知覚は生じないので、脳のどこかに両方の径路が交差して相互作用が生じる場所がある。そこで相互作用としての風味が成立する。そういう言い方です。これはデカルトの松果腺を介した精神と物質の相互作用という神話的な語り方の再現にとどまると言います。著者は、これに対して、味や匂い、そして風味を感じるのは脳のなかではなく、口の中の食物の性質としてといいます。つまり、食べ物を口の中に入れてから、口の中で舌や歯を使って咀嚼し、飲み込むまでの味わいの過程として実現する経験が、口を中心として、様々な感覚をフル活用することを通してひとつの対象の味を味わっている、マルチモーダルで多感覚的な過程であるということになります。
 このような味わいの経験をモデルとして近く経験を考えるとすると、知覚経験は五感をフルに活動させてはじめて成立するものだということになり、知覚の主体とは、そのような五感を兼ね備えた主観、つまり、五感を統一的に備えている身体的存在ということになります。
さらに進めると、知覚の対象は、主体に対峙したあり方をしているのではなく、主体とのかかわりのなかでその姿を現わすあり方をしているということになります。生態学的心理学で用いられる言葉を使うと、知覚の対象はアフォーダンス(行為との不可分な関係をもつ性質)を備えたものとして現われてくるということもできます。このとき世界は、知覚主体がそのなかで活動しうる場として現われており、この意味で、知覚経験とは、知覚主体が身体的な世界内存在を実現しているあり方を示すものだと考えることが出来ます。
d.知覚と感覚
 知覚と感覚についてのオーソドックスな見方のひとつは、知覚は下界の認知のあり方を実現する機能であり、感覚は対象からの情報を受け取り、知覚の働きに材料を提供する役割を果たしているというもの。著者は、これらを一定の認識論的関心や存在論的関心に基づく、例えば要素主義を前提とした見方としていて、本書では、そうではなくて知覚と感覚は同じひとつの経験の二つの側面を表現する言葉であり、知覚経験を問題にする観点の違いに対応する言葉として用いるとしています。
 例えば、焚き火を囲んでいるような場合を想定してみると、目の前の焚き火は赤々と燃えながらかたちを変えるという姿をとり、ぱちぱちと音を立て、煙の匂いを発し、さらには、暖かさが感じられ、場合によっては火の粉が飛んできて熱さややけどしそうな痛さも感じたりするかもしれません。これらの多様な現われ方は、視覚、聴覚、嗅覚、触覚などに区分されるかもしれませんが、どれも火の知覚です。したがって、火を異なった感覚として区分する場合には、何を知覚しているか、だけでなく、どのように知覚しているかを問題にしています。このどのように知覚しているかというあり方に対応する特徴を感覚的要因と著者は呼びます。知覚は、何をという要因とどのようにという要因のふたつの要因ないと局面(アスペクト)を持っている経験と言えます。
 このような仕方で感覚を理解することは、分析的に特徴を捉えるというのではなく、知覚経験あり方に即して、その「いかに」経験されているかが示す特徴を捉える試みです。それを著者は現象学と捉えます。つまり、経験の対象そのものを、対象の現われ方、つまり経験の中で対象がいかに現われているかを問うことにあるという方法です。
e.生態学的現象学
 本書は、フッサールやメルロ=ポンティの現象学とギブソンなど生態学の両者の見方にもとつづいています。
現象学では「世界」という言葉が使われる場合には、まずは、我々が日常生活をそのなかで送っている世界、それかぜ知覚世界として現われている。他方で、我々になじみのこの知覚世界の現われ方も、原生人類が世界へ適応する長い歴史の中で獲得してきたものであり、さらには、人類が誕生する以前からの長い生命進化の歴史の過程を経て獲得してきたものです。この意味では、現在、我々が享受している多様な感覚を通して現われる世界のあり方は、生物としての人間が世界にどのように適応してきたか、そして現在、適応しているか、そのあり方を色濃く反映したものになっているということができます。
f.射映と注意
 われわれの体験する知覚はマルチモーダルだというのが本書の基本テーマです。しかし、同時な我々は自らの知覚経験を表現するときは、見るとか聞くなど、個別的な感覚様相に対応した言葉を用いています。つまり、知覚経験は基本的にマルチモーダルでありながら。他方では個別的な感覚様相のもとで経験され表現されています。この二つの側面について、本書では味わうという経験を典型例として取り上げてみていくことになります。食べ物を味わうプロセスでは、全体としてはマルチモーダルな特徴を持つ食物が現われながらも、その都度視覚的様相や嗅覚的様相の側面に注意が向けられ、ほかの感覚様相の側面が隠れる、といった具合に経験がすすんでいくと表現してもいいのではないかというのです。このモデルをフッサールの射映概念の拡大版として用いています。似たような概念に注意という志向性という性格を反映した概念もあり、これらを用いて感覚様相の区別と連関を捉えようというのが、本書の議論です。

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