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2019年7月 7日 (日)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(2)~第1章 知覚のマルチモダリティ

1.マルチモダリティを示す諸現象
 まず最初に概念規定から、マルチモーダルとクロスモーダルを区別します。クロスモーダルという言葉は、異なった感覚様相に属する現象同士が相互作用する点を強調する場合に用いられ、マルチモーダルという言葉は、ある知覚現象が、ひとつの感覚様相で規定しうるものではなく、根本的に多くの様相が連関して成立する総合的な現象であることを強調する場合に用いられている概念です。しかし、結局は、同じ現象のどのような特徴に注目するかによって、二つの言葉づかいが分かれるようなものと言えます。
 著者はいくつかの事例を取り上げて説明していますが、錯覚という現象に注目することになります。ゲシュタルト心理学の場合が典型的ですが、知覚現象の特徴を示すために錯覚現象が用いられてきました。ゲシュタルト心理学は、全体が要素の和に還元できないことを示すために、例えば、カニッツァの三角形のように、図形の配置の仕方に応じて、実在しない輪郭が「見える」現象が取り上げられます。個別的な感覚様相のたんなる和としては説明できず、全体として新たな特徴が生じることを印象深く示すものです。ゲシュタルトの原理は、錯覚現象の説明に用いられるだけでなく、日常的な知覚現象の基本構造を形成する原理とみなされています。マルチモダリティも同じように原理としてみることができるのではないか、これが本書のテーマです。
2.メルロ=ポンティ/ヘルダーのテーゼ
(1)メルロ=ポンティのテーゼ
 メルロポンティの描く視覚世界は、けっしてひとつの感覚様相によって近づきうるような世界ではなく、本質的に、相互感覚的でマルチモーダルな性格を持つ世界です。したがって、そのような世界を知覚する主体の側も感覚様相が別々に機能し、異なった感覚様相から多様な感覚が与えられ、そのうえで、それらを思考の働きかけがまとめるようなあり方をするのではなく、感覚の次元ですでに、異なった様相同士が交流するようなあり方をするとみなされています。
 以下に、代表的なテーゼを引用しています。
 「単独の感覚による知覚経験というものが考えられるとしても、それは分析の結果、成立する根源的な知覚においては、触覚と視覚との区別は知られてはいない。人体についての科学が、そのあとで、われわれに、われわれのさまざまな感覚を区別することを教えるのである。体験された物は、さまざまな感覚所与をもととして、再発見されたり構成されたりするのではなく、それらの感覚的所与が輝き出る中心として、一挙に示されるのだ。れわれは対象の奥行きや、ビロードのような感触や、柔らかさや、硬さなどを見るのであり─ソレトコメカ。セザンフに言わせれば、対象の匂いまでも見るのである。」
 つまり、物は最初から、相互感覚的あるいはマルチモーダルであり、感覚の多様なあり方は統合された全体の中で一挙に捉えられる。
 「単独の感覚による知覚経験は実在を示さない。もしもある現象が─たとえば、反射光にせよ風のかすかなそよぎにせよ─、わたしの感官のひとつにしか与えられないならば、それは幻影にすぎない。それが現実の存在に近づくのは、たとえば風が激しく吹き荒れて、風景の動揺として眼に見えてくるときのように、この現象がたまたまわたしの他の感官にも語りかけることが可能になる場合のみだろう。」
 もし視覚にしか現われないような対象があるとすれば、それは幻影だと。実在として受け取れるのは、その音が聞こえ、匂いを感じさせるとだ。
 「物が相互感覚的統一体であるのと相関的に、知覚者の側でも、それぞれの感覚器官は最初から統一し、共働するような仕方で統合されている。相互感覚的な対象が視覚的対象に対するのは、この視覚対象が複視の単眼像に対するのと同じであって、二つの眼が視像のなかで協力するように諸感官は知覚のなかでたがいに交流し合うのだ。音を見たり色を聞いたりすることが実現されるのは、まなざしの統一が二つの眼を通して実現されるようなものであり、それというのも、わたしの身体が並置された諸器官の総和ではなく、その全機能が世界内存在という一般的運動のなかで取り上げ直され、互いに結び付けられているひとつの共働系だからであり、実存の凝固した姿だからである。」
 複視の事例をモデルにして複数の看過器官の連関するありさまを説明しています。知覚の統合は思考によるものではなく、視線の向け替えという身体的行為によることだとしています。したがって、メルロ=ポンティによれば、感覚とは相互感覚的に成立する全体としての身体的な世界-内-存在の一形態だということになります。それらを踏まえて、著者はメルロ=ポンティのテーゼを次のようにまとめます。
  Ⅰ:私たちの知覚経験は、基本的にはマルチモーダルないしは多感覚的である。
  Ⅱ:知覚経験の対象はマルチモーダルないし多感覚的性格をもつ。
 このテーゼに著者は、ひとつの問題点を指摘します。ふつう我々は知覚経験を理解するときに、それが視覚なのか、聴覚なのか、あるいは触覚なのか、区別がつかないような仕方で経験しているとは思っていないからです。例えば、ガラスが割れるときに、その出来事が現われるあり方は、視覚によっても聴覚によっても、そして場合によっては触覚によっても捉えられますが、だからといって、感覚様相の区別がつかなくなるような仕方で経験しているとは思わないでしょう、ガラスが割れるのを見ることと、その音を聞くこと、さらには、割れたガラスの破片で手に怪我をして痛みを感じる場合などを比較すれば、経験の仕方は大きく違ってきます。つまり、一方では、日常的知覚経験は基本的にはマルチモーダルです。しかし他方、それぞれの知覚経験は、感覚様相に固有のあり方を示しており、それらを他の様相へ置き換えることはできないのです。
(2)ヘルダー/ウェルナーのテーゼ
 ヘルダーは言語の起源を神の創造という見方を批判し、他方で動物の鳴き声のみを起源とする見方も批判しました。彼は、人間には動物には欠けている理性が備わっているとし、この理性の働きが言語の働きに現われていると考えました、その理性の働きとは、人間に備わる感覚的生のあり方から切り離されているのではなく、感覚的生のあり方と共働して言語を生み出すと考えました。その理由をヘルダーは次のように説明します。言語の発生の原初形態は、音声と対象との結びつきにあると言います。かれによれば、言語の発生の原初的、音声と対象との結びつきにあるといいます。例えば、羊はいつもメーメーと鳴くので、我々はメーという鳴き声によって羊を特定できるようになると言います。つまり、「メー」という音声が対象の標識の役割を持つようになり、ここに言語の原初的形態が成立するというのです。しかし、すべての物が音声を発するわけではなく、ヘルダーは感覚の根底には触感(触覚的感覚)があり、この他の感覚と緊密に結びついていて、そのために単に見られるだけの対象も、触感を通して聴覚的要素と結びつき、原初的言語を獲得することができるといいます。
 ヘルダーは、感覚相互の結びつきは人間にとって不可避なものであることを強調します。しかも、その結びつき方は、理性によって理解できるようなあり方をするわけではないのです。しかも、理性を形成する言語が、その非理性的な感覚に基礎付けられているというのです。
 一方、ウェルナーは『発達心理学入門』で原始的な心的活動の特徴を未分化な複合的性格に見出しています。次のように言います。
 「見る、味わう、嗅ぐといった個々の感覚領域は、原始的水準では未分化で、それらのあいだには非常に密接な関連があるように思われる。通常の心理学では<共感覚>という用語を、ある特定の刺激が、それに特殊的に対応した刺激を引き起こすのにとどまらず、その感覚と複合をなしているほかの感覚をも引き起こすという意味に用いる」
 ウェルナーは、このように述べた上で、共感覚が成立する条件を取り出していきます。ここから著者はヘルダーにもどり次のようなテーゼにまとめます。
 Ⅰ:マルチモーダルである感覚のあり方は感覚の未分化という根源的、原初的なあり方を示しており、分離したあり方は、未分化な根源的、原初的なあり方をもとにして、そこから発達し、分離・抽象が進んだ結果である。
 Ⅱ:したがって、大人の日常的な知覚において原初的な<共感覚的>知覚を実現しようとするには、一定の条件のもとで、原初的なあり方が再生されねばならない。
 ここから、我々の知覚経験がマルチモーダルであり、個別的様相を示しているという二つのあり方は、知覚の発達段階の違いに対応するということで矛盾を解決できることになります。しかし、これでは不十分だと著者は言います。そこで、月からは、日常的感覚に見られるこの特徴を考えるために、感覚様相の分離がどのような特徴を持つかを見ていくことになります。

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