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2019年7月14日 (日)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(5)~第2章 感覚のスペクトル(3)

2.感覚のスペクトル
(1)自我と世界のコミュニケーションとしての感覚
 ドイツの精神病理学者シュトラウスは『感覚の意味について』のなかで、感覚を認識の観点からとらえる伝統的な見方を批判し、感覚を主体(自己)と世界とのコミュニケーションとして解釈する見方を提起しました。ここでシュトラウスが強調するのは、感覚するとは単に認識することではないという点です。世界と主体は別々にあって、それを認識するというのではなくて、感覚の次元で登場する世界は主体を引きつける力を持った対象や主体を脅かす力を持った対象等価値的性質をもったものに満たされている。つまり、主体にとって、恐ろしいとか欲しいとかいったように対象に対して何らかの関係をせざるを得ないものということでしょうか。したがって、感覚はつねに情動的ならびに身体的自己運動と不可分な関係にあります。もうちょっと詳しく言うと、感覚するという経験が行われている次元ですでに、自我は最初から世界の中に存在し、世界と切り離しがたい相互関係のなかにあるとみなされます。それゆえ、感覚経験は多様な仕方で実現しますが、自我と世界との両極をもった仕方で統一するあり方のひとつとして実現するのだから、感覚の次元を超えたなんらの統合作用(思考のような知的作業など)を必要とするわけではないのです。

(2)感覚のスペクトル
 例えば、焚き火をしている場面を想定してみましょう。我々は、焚き火を前に、その炎の明るさを見ながら、ぱちぱちという燃える音を聞いています。また、炎から発せられる熱を感じ、そして、煙の匂いを嗅いでいます。さらに、やけどをする危険をおかせば、炎に触れることもできます。ここで、見られた火から始まって、聞かれた火、熱を感じた火、嗅がれた火、そして触れられた火まで、感覚様相の違いに応じて、対象の現われ方は大きく異なっています。対象に関しての知識を得るということだけなら、どのような感覚様相を介してであれ、「それは火である」「そこに火がある」という獲得された信念内容、あるいは知識内容は、ほとんど変わることはないでしょう。しかし、生活の中での火の持つ意味を考えると、見られた火と触れられた火とでは、その意味と価値は大きく異なってきます。多くの子供は、やけどを負うことによって、この違いの意味を身をもって学ぶことになります。
 感覚の意味は単なる感覚的性質を意識にもたらすことにあるのではなく、感覚することによって、我々は世界と世界に関わる自分自身を経験するのであり、それぞれの感覚様相に応じて、自己の身体に関して特有の仕方で気づくのです。視覚経験では、相対的に自己の身体との関係が離れてしまうことがありますが、触覚経験では自己の身体との関係は密接だということをやけどの体験が教えてくれます、感覚様相ごとに、世界へのかかわり方が異なります。
 シュトラウスは、感覚によるコミュニケーションのあり方の違いを二つの要因により性格付けようとします。ひとつは、何らかの対象に向かうという意味で志向的要因とみなされ、対象に気づくことが主となります。もうひとつは対象から影響を絞るという意味でパトス的要因と特徴づけられ、自己の身体を経験することが焦点化されます。シュトラウスによれば、これら二つの要因のどちらが顕在化するかによって、そして、両者が結びつく仕方が異なることによって、それぞれの感覚様相の特徴が規定されると言います。視覚に現われる燃えさかる焚き火の火は、絵画に描きたくなるような美しさを示すかもしれません。他方で、不注意に触れてしまった焚き火の火は、苦痛をもたらし、場合によっては命を脅かすことになるかもしれません。このように、視覚に現われる火と触覚に現われる火とは、簡単に同じ対象と呼ぶことをためらわれるような違いを持っています。この違いは、単に対象との距離といった量的な差に還元できるものではない。このような多岐な要因を含んだ個々の感覚様相の間の違いと連関を、シュトラウスは感覚のスペクトルと言います。
 これについた著者は、対象を「いかに」感覚的に経験するかの違いが、「なにを」経験するという対象の意味や価値のあり方に大きな影響を与えていたことを示していると考えられると言います。この意味で、シュトラウスは、「なにを」の契機と「いかに」の契機の不可分性を強調している。このような点で、シュトラウスのあげる二つの要因は、「なにを」と「いかに」という知覚経験の二つの側面に対応していると考えられると言います。「感覚のスペクトル」とシュトラウスが呼んだ構造は、色彩のスペクトルが色相に関してそれぞれ相互に還元不可能でありながら、類似性に関して相互に比較可能な仕方で並べられているように、個々の感覚様相は独立してその意味をもっているというより、感覚様相のあいだで、それぞれ相互に還元不可能な意味をもちながら、志向的要因とパトス的要因との組合せという点で比較可能な連関をもつようなあり方を示しています。
 人間関係にもこのような特徴は意味を持ってきます。視覚の地平の中で、我々は共通して何かに立ち向かうことができるのです。持続を通しての共働活動のあり方が典型例です。それに対して音は、音源から切り離されると、空間を満たし、その場の人々すべてを包み込むことができ、人々を現在という時間的性格を強く持つ共有の体験に結びつける働きをすることができます。他方で、触覚の場合には、直接的な相互性という性格を持つために、共同性を二人のパートナーへと限定することになります。つまり、第三者を排除し閉じられた緊密な関係を作り出すことになります。
 シュトラウスは次のように言います。
 「感覚様相のどれひとつとして、ただひとつの調べをもった系列の中で実現しているわけではない。実際、それぞれの様相において、自我-他者関係という基本テーマが特有な仕方で以下のように大きく異なった様相を呈する。視覚においては持続的なもの、聴覚においては現在性、触覚においては相互性、嗅覚や味覚の領域では相貌的なもの、痛覚においては権力関係といった具合に、それぞれの特徴が支配的になっている。」
 どの感覚様相も、自我と世界とのコミュニケーションというあり方の一側面を示している点で、最初から全体へと結び付けられ、相互に連関しています。世界の中に現れています。しかしそれぞれの現われ方は、あくまでも全体としての自我-世界関係の部分アスペクトであり、それぞれが相互に還元不可能な多様な仕方で特徴をしめしています。シュトラウスは、このような意味での「全体的である」あり方を「非-全体」とも呼び、つねに補うことができ、補う必要のあるあり方をする全体だけが統一しうるのだと述べています。このような点で、シュトラウスもまた、全体がつねに一面的な仕方で現われるというあり方のなかに、感覚様相の違いと連関が成立していると考えています。

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