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2019年8月13日 (火)

メスキータ展(3)~2.人々/Human Figures

Mesquitaextacy  Munchmadonna2 ここでは人物を描いた作品が集められていました。さきほど、メスキータの作品はカフカの小説に似た雰囲気があると述べましたが、まさにカフカの小説にピッタリの画家というと、私としてはムンクの名を最初にあげたくなります。ということで、ムンクを想わせる作品が「エクスタシー」という1922年の木版画。同じ版木で違った刷り方をしてヴァリエイションを作り出しているのはムンクもよくやっていた手法です。この画面はスッキリと単純化されて図面のようになっていますが、裸婦の外形をなぞるような形が波紋のように何重にも重なっているのは、ムンクの「マドンナ」を想わせるところがあります。表情もなんとなく似ているし、全体に黒が地になっているとろなんか、よく似ていると思います。メスキータという人は、おそらく強い個性とかオリジナリティをあった人ではなく(だから教師として、エッシャーをはじめとした優れた学生を輩出させることができたのだと思う)、同時代の作家や影響を受けた作家の影が、直接的に見えしまうところがあります。「ユリ」という1917年頃の木版画は、やはりムンクの「病気の少女」や「目の中の目」のような画面構成になっていて、その関係が図式的に見えてくるように思えてしまいます。しかし、「エクスタシー」がムンクの「マドンナ」と決定的に違うのは、例えば、裸婦のMesquitalily 両脇にシンメトリーに配置されたヴェールを被った人物の身体を蔽っているヴェールが縦線と点を反復するように並べているだけで表現しているところです。この作品は、構図こそムンクを想わせますが、画面の白いところは、両脇の人物の顔と中央の裸婦だけで、それらは平面的な図案のようになっていて、かたちをなぞっているだけのようなんですが、それ以外の部分は、木版画の版木を刃で彫ることによる、筆やペンで描くのとは違う肉体的な線で、一本一本に個性があるのを作品のために抑えて繰り返そうしているのだけど、その個性が抑えられなくて表われてしまう。それが、反復に生き生きとした躍動感を生み出していて、その反復がさても面白いものになっています。
 「女のトルソー(“ヘッティ”)」という1920年の木版画は、シンメトリーな構図で背景は椅子の背もたれでしょうか、アールヌーボー風の曲線的な縁どりに、縦線が繰り返されて、装飾的にみえてきます。これは、すこし、アルフォンス・ミシャの装飾的なポスターを思い起こさせるといったら見当はずれでしょうか。たしかに、ミシャの細かく描き込まれた繊細さはなく、木彫の太めの線でシンプルではありますが、部分の差異に、装飾にこだわることで画面全体ができている画面構成には共通点があると思います。いってみれば、それだけでミシャのように女性を美しく表現しようとMesquitatruso か、美を表現しようとか、そういう意図は感じられなくて、これは、前に見た「エクスタシー」もそうですが、図案化した女性ヌードについて、この人は思いいれがないと言うか、美しく描こうとか、性的な含みもなく、リアルにその人物を描こうといった対象への思い入れのようなものがなくて。突き放した感じといいますか、ヌードを図案化したように描いても、身体のたるみのようなところは、普通は隠すと思うのですが、そういうところも平気で描いている。だから、図案のようにパターン化して、背景に装飾のように加えても、全体に装飾的な美しさとかきらびやかさは生まれない。メスキータ自身にそういう効果を見る者に与えようという意図はないかもしれませんが。
Mesquitanude2 Mesquitanude  「喜び(裸婦)」と「悲しみ(裸婦)」とふたつ並んで展示されていた、両方とも1914年の木版画作品。女性ヌードの身体の表現が横線だけでなされています。凹凸を表すのに前方に出て明るいところは太い線、奥の暗い方は細い線って感じで表現している。これがメスキータの大きな特徴だと思います。しかし、これが身体全体に施され、ヌードが横線だけでできている。これを見ていると、感覚的に気持ち悪く思うところがあります。これは、メスキータの作品全体に言えることで、前にも触れましたが、カフカに共通するような暗いとか不気味さといったもので、これは時代状況とか思想しか理念といったところにあるのではなくて、こういう描き方をしてしまうという身体的、もっというと生理的なレベルで感じられることです。そして、この展覧会の惹句で使われているエッシャー(メスキータの教え子ということなのでしょうが、こっちの方が遥かに著名です)の作品には、このような気持ち悪さは露ほども感じられません。これは、同年制作の「裸婦」という木版画で、その横線の配置が、まるで全身骨格の配置に符合するかのように見えて、裸婦像なのに骨格標本のように見えてしまうという作品に至って、その気持ち悪さと荒唐無稽さに唖然としました。意味を深読みしたくなってしまうのですが(例えば“メメントモリ”とか)、メスキータ本人は、おそらく、ただ描いている、というよりも、版木を彫っているだけなんでしょうけれど。そこで、私は、妄想するんですが、この人は、作品全体の構想をデザインすること以上に、版木に横線を一本また一本と彫り刻んでいく作業そのものに喜びを感じるような人ではなかったのかと思うんです。この作品では、身体にうまれる光と影を横線で表わすので、一本Mesquitaboy 一本の横線の太さを微妙に変えて、しかも身体の凹凸を考慮して、横線が上下に並べて引かれている線とは必ずしも同じ方向にはならず、ちょっとずれたりする。そういうことに注意しながら慎重に彫刻刃で木版を削っていく。その作業で、腕や指を動かすという身体の反復動作が楽しかった、そんな感じがします。だから、制作しているうちにやりすぎてしまう。それが見る者には、過剰で気味悪く見えてしまう。だから、メスキータ本人には気味悪くしようという意図は、さらさらない。それが、あえて気味が悪いというのを自分の作品特徴にしようと意図的にやったムンクとは、資質が違うように感じます。
 「少年(ヤンチェ・スケルペンゼール)」という1927年の木版画作品も、輪郭線がほとんどなくて、横線を並べて引いて、その変化で立体的な少年の顔を表現していますが、そのスケッチや下絵が並んで展示されていましたが、スケッチは鉛筆で輪郭線もあって、鉛筆の線をぼかしたりして普通にスケッチを描いているのが、かえって線が少なくて簡素と言っていいのに、それが木版画の作品になると、輪郭線は消えて、横線で顔が占領さMesquitahat れてしまう。制作しているうちに、だんだんとエスカレートしていってしまうのではないかと想像してしまうのです。その結果が、ここにあるように作品で、そこにメスキータという人の特徴があると思います。人物画は、人物のかたちということが制約になっていますが、これが植物や動物を題材にした作品になると、そういう人物画の制約から解放されて、全体のプロポーションをそれに合わせて変えていった作品が見られます。少し、先走りしてしまいました。
 人物画には制約があると申しましたが、「帽子の女」という木版画では、そういう制約を乗り越えて、人物画ではあるものの、デザイン化をエスカレートさせて抽象画のようになってしまっています。輪郭を使わす線の陰影だけで表現ししてしまいました。行くところまで、行っちゃったと言える作品です。これはすごいとしか言いようがありません。かっこいい。ちょっとミシンで縫った刺繍のように見えなくもありませんが。

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