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2019年9月22日 (日)

畦地梅太郎 私の山男(2)~1.山男があらわれるまで

Azechilandscape  習作時代から初期のころの作品です。いわゆる美術学校のような教育機関でアカデミックな美術教育を系統的に受けたというのはないことが、端的にわかります。地方から都会に出て就職して、そこで何かの機会で版画と出会い、そこで興味をもったり、周囲の人々に才能を見出されたりして、次第に版画グループの仲間に入って、見よう見まねか、仲間に教わっていく、いってみればアマチュアリズムというようなものを持っていた人なのだろうことが分かります。最初に展示されていた「工人」という1925年という20代のごく初期の作品は、デッサンがきちんとできずに、かたちが捉えられていないのですが、プリミティブアートに通じるような素朴な味わいがあるのです。へんな比較ですが、ジャクスン・ポロックがまだ抽象表現主義に達していない若い頃に、アーリー・アメリカンのプリミティブ・アートを模したように制作した作品によく似ています。しかし、それは絵画としての絵になってないともいえるわけで、同時期の「風景」という版画作品を見ると素人の手遊びの域を出ないもので、とうてい人に見せるような代物ではないと思います。
 それが、1936年の「九島山風景」になると、湾の入り江を見下ろすような箱庭のような風景がちゃんとパースペクティブが感じられるような、空間があるという作品になってきています。ただし、それ以外は、よく言えば素朴とか朴訥、悪く言えば、ちゃんと描かれていないでリアルでない。
Azechimyougi  そして、1940年の「妙義山」という作品は、ちゃんと妙義山が画面にあります。山岳を風景として描く画家は少なくありませんが、たいていの画家は山そのものを描いても、妙義山とか浅間山といった特定の山を、それとわかるようちゃんと描くことはありません。そういう画家たちは、山を単に地面の盛り上がった起伏くらいにしか見えなくて、すべて富士山のようなピラミッドの形に収斂させてしまうような認識しかできないのだろうと思います。でも、妙義山と富士山とでは、山の成り立ち、つまり、どのようにして山ができたのかという原因も違うし、その山を構成する岩の内容、つまり中身も違うのです。人間で言えば、骨格が違ったり、育ちが違うのです。肖像画では男と女、王族と庶民を同じように描くことはありません。それは、その違いを画家がわかって、そういうとして描いているからです。しかし、山に対しては、多くの画家はそういうのをいっしょくたにして描いてしまっているのです。まあ、作品を見る側も山の違いは分からないから、どっちもどっちなのかもしれません。しかし、近代以Azechimyougi2 降。日本の場合は、大正から昭和のころから近代登山が普及し始め、そのような山の違いが分かる人々が生まれ始めました。そういう人から見れば、妙義山と富士山は明らかに違うのです。そういう違いが分かるからこそ、彼らは、他の山でなくて穂高岳に登るのです。それが他の山と同じだったら、あえて、穂高岳に登る意味がないのです。他の山にない何かが穂高岳にあるのです。それは登った当人だけでなく、登山をする人なら分かるのです。そういう山の個性というものが、共通の認識として、この人たちの間には共有されていたはずです。そういう彼らから見れば、畦地の、この「妙義山」は、彼らが登山の対象として個性があると見ていた妙義山と認識できるように描かれていたと言えます。それは、山の形状が写真で撮ったように写実的に描かれていたというのではなくて、少なくとも、その形がある程度忠実に再現されていたことは言うまでもありませんが、妙義山が岩稜の連なりであること、その岩稜ということが奇岩が続くといっても、岩とはこういうようにできるという意味がちゃんと分かっていて、現実にありえないような荒唐無稽な形状になっていないで、納得できるというものでした。その反面、この作品では、山が妙義山と分かるもの以外は描かれていません。例えば、手前の緑の部分は森林のはずですが、日本の山の風景画で普通は森林の木々が緑豊かに生い茂る様子が描かれているのですが、ここでは単に緑色に塗られた地形としか描かれておらず、木々の様子は省略されています。中景の低い山の茶色も、草木に覆われた山のはずですが、同じように彩色だけされています。それは、畦地に草木を描き込む力がなかったのかもしれませんが、見ようによっては全部岩山に見えてしまうような、この画面は、しかし、妙義山の山の形が、それだけ強調されるように、意味が分かるのです。これは、絵が上手いとか下手という以前に、妙義山という対象が分かっているか否かということです。しかも、その分かっているというのは登山をする人が山を認識する場合の意味です。それが分かっている畦地は、それだけで他の画家にはない差別化された個性を得たといえると思います。
Azechihakuba  「白馬大雪渓」という作品です。これは完全に登山家向けといってもいいでしょう。登山家が夏の白馬岳の大雪渓を登ろうとするとき、このように見えるという要素を最低限満たして描かれています。それで、たとえ遠近法がいい加減であっても、これが白馬大雪渓であると分かってAzechihakuba2 見てしまえるので、あとは見ている登山家が記憶や知識で補ってこの画面を白馬大雪渓として見てくれるのです。そういうものとしてこの作品はできていると思います。それは、畦地自身が登山をしていたから、登山家の山の見方が身についていたかもしれません。畦地は、絵の対象として「山」ではなくて「山岳」を見出し、それを絵にするために「山岳」を描いた画面のあり方というのを、新たに創作したのが、このような作品に成果として表われたのではないかと思います。それは、日本の、それまでの風景画、例えば、山水画とか、山を描いた葛飾北斎の浮世絵とか、横山大観の富嶽図とか、洋画の山の入った風景画とは、違う意味づけや画面構成の画面になっていたのではないかと思います。それは、まず、普及しつつあった登山を愛好する人たちに受け容れられるものであったことから、徐々に支持者を広げていったと想像できます。おそらく、そういう人々は、絵画の素養とか教養をそれほど持ち合わせていなかったかもしれず、したがって、畦地の絵画としての拙さは気にならなかったかもしれません。そうであれば、畦地は、あえて絵画的に上手な絵を描く必要はなかった。これは、私の想像ですが。後年、畦地は山男の作品を何枚も制作しますが、この「白馬大雪渓」に描かれている登山者の姿が単独で取り出されたように見えます。
Azechiishizuchi  「石鎚山」という1946年の作品です。石鎚山は四国の最高峰で頂上は鋭い岩稜が続いている山です。この作品で、畦地は岩稜の連なりを正確に描写するのではなく、その地形のリズムとして全体像を捉えているように見えます。それはまるで、この稜線を縦走する登山家の身Azechiishizuchi2 体的な体験を感覚的に画面に再現しているように見えます。つまり、この岩稜を実際に歩いて身体感覚として登りや下りを実感したままが画面に表われているような錯覚を、見る者(但しこの場合は登山を感覚できる人に限られますが)に生じさせるものになっていると思います。それは、普通の絵画的な画面の作り方とは違うのではないかと思います。さらに、木版画という表現上の制約が、返って、この人の場合は細かい描写を省略できることになって、岩の質感とか森林の木々の描写などのことは省略してしまって、地形のリズムに的を絞らざるをえない画面となっている。それを逆手にとったような結果。そこに畦地の作品の独特の個性があるのではないかと思います。

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