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2019年10月11日 (金)

伊庭靖子展─まなざしのあわい(3)~Ⅱ

Iba201202  次のコーナーは、最初のコーナーからエスカレータの反対側の小部屋で、テラスの開放的な空間から、低い天井の狭い空間に環境が変わります。そのため、ちょっと閉塞感がある。そこに、白いパーティーションで区画をつくって、長方形の部屋を曲がり角のある展示コースのように空間をしつらえてありました。ここでは器のシリーズというのが展示されていました。最初のコーナーとは打って変わって比較的小さなサイズの作品で、中には水彩の作品もありました。ところが、その水彩の作品と油彩の作品の区別がよく分からないのです。この人は油絵を水彩のように使っているといえばいいのでしょうか。薄く溶いた絵の具を透き通るような感じで、油絵の具の物質感があまりなくて、色彩に芯がなくてフワフワ漂っているような感じが、水彩絵の具のにじんだりぼけたりする感じと、区別がつきにくくなっている。そういうので陶器の器をモティーフに描いた作品です。「Untitled2012-02」という作品。陶器の物質感というか光を遮って、つるつるの冷たい感触のモノとして在るという感じがしなくて、ガラスの透明な器に色で模様をつけたような感じがあります。ここで、さっきまでのクッションのシリーズとは、なんか違う。その違いはけっこう大きい。そう感じたのですが、それというのも、この作品では、これまで見てきたクッションのシリーズとは違って、器の形、つまり全体像がはっきり分かるのです。つまり、クッションのときのような布地の感触が目に見えるような接写ではなくて、少し距離をおいて器のかたちを画面に収めているのです。その代わりにクッションのシリーズの触覚的な質感が稀薄になってしまっている。それが、さっきも少し述べた陶器の物質感というか光を遮って、つるつるの冷たい感触のモノとして在るという感じがしないということです。その代わりに、クッションでは襞という表面の歪みが光と影をつくりだしていましたが、ここでは、襞による光と影ではなくて、というのも陶器の表面に襞はできないでしょうから、つるつるとして表面を光の反射バリエーション、つまり、光が反射して光るところと、それほどあたらないで影になる、しかも、器に水が少し入れられているみたいに光を吸い込んで通しているところと、その光への対し方の違いで変化つくっています。それゆえに、陶器の物質というよりも、その光に対している表面が、結果として器の形に見えるという。それゆえに、物質感というより、光に映っているように見えている。
 それを、描くという面で見ていくと、クッションの作品では、淡い色彩のグラデーションによって柔らかい感触を作り出していたのが、この作品では、色彩のバリエーションは抑えられて、白(クリーム色)と青の二色に限定されていて、しかも、ほとんど画面は白の部分で占められています。見方によれば、青はその白を引き立たせるものでしかないように感じられてきます。そう、この作品は、色彩だけでみていくと白のグラデーションとして、光のさまざまな状態を白の濃淡と、かすれやにじみなどと表われていると言えます。そのためにか、作品が展示されている壁面も、本来の煉瓦色のような壁に直接掛けることをせずに、真っ白のパーティションを立てて、そこに掛けてある。さらに照明についても部屋の照明を抑えて、白色のライトを当てている。それは、白のグラデーションをしっかり見せるとともに、作品の画面と同質の空間を展示室に作ろうとしているように思えるのです。この展示空間の工夫については、この後のギャラリーAの展示では、もっとあからさまな様子になります(実は、そこで、私は、そのことに気づいて、その後で、こちらに戻って、なるほどと思ったのです)。
Iba201411  「Untitled2014-11」という作品。上で述べた傾向が、さらにエスカレートしています。コーヒーカップなんでしょう。絵具の滲みや掠れがさらに目立ち、また絵具が明らかに隆起している箇所もあります。ステイニング、また水墨画としたら言い過ぎでしょうか。大胆なストロークの結果として、画面ではコーヒーカップに見えてくる。そういう作品になってくる。クッションの作品が、クッションを、私たちは日常的には、とくにそれと意識することなく、用いている、それをそのまま描いてみようとしたと言えるのではないかということを述べました。ここでは、私たちは陶器の器やカップを、クッションのようにわざわざ触って冷たく硬い表面を意識しているでしょうか、その表面を触って愛でる人もいるかもしれませんが、それは陶器に特別の愛着を抱いているような人で、ふつうは、とくにそれと意識せずに、そこにお茶を注いだり、食べ物を置いたりする。そのことが主となります。つまり、器の質感も外見も、メインとして認識しているわけではない。そこにある、見えるということで用は足りるわけです。ただ、サイズや全体のかたちが分からないと、器の中のお茶をこぼしてしまうかもしれない。逆にそれは最低限、認識している。そう考えると、この人の描いている画面は、静物画とか芸術の視点とかいうものではなくて、そういう先入観のないところで、日常の生活のなかで、こういうのをどのように認識しているのかを純粋に抽象したといえるのではないかと思えてきました。
Iba201501 「Untitled2015-01」という作品です。これまで見てきた作品には稀薄だったパースペクティブがはっきりしていて、それぞれの器の位置関係が明確で、それぞれの質感の違いも描き分けられて物質としての存在感があります。普通に静物画です。それが、ここに展示されている作品とは妙に異質に感じられます。何か、形式的というのか、タテマエみたいな印象を受けてしまう。おそらく、この作品だけを取り出せば、モランディのような思索的な性格を湛えた静物画と、何の違和感もないのでしょうが。Morandi1951

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