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2019年10月12日 (土)

伊庭靖子展─まなざしのあわい(4)~Ⅲ

Iba201603  さて、次のコーナーは、小部屋をでて、眼下に大広間のようにひろがっているギャラリーAの展示室をパーテーションで迷路のように仕切っている空間です。前の小部屋とはちがって、この広間では、その作為を隠すことができず、あからさまです。部屋の照明はオレンジ色っぽい色がついているからでしょう点灯されておらず、したがって部屋全体は薄暗い空間で、白いパーティーションで仕切られて、わざと空間を狭くして迷路のように先が見えない、しかし、パーティーションで上方が開かれているために閉塞感はない。上方には薄暗い空間が広がっている。では作品が見えないかというと、各作品の前に白い光のスポットライト照明が当てられています。しかも、その角度やライトの本数などをかなり神経質に考慮されているのではないかと見える節があります。例えば、スポットライトを照明当てると影ができますが、その影の処理をかなり気にしていたり、白い光が作品の画面の白をどのように照らしているかに、かなり気を遣っている様子が見て取れる。しかし、展示されている作品は、前のコーナーの白のバリエーションという色遣いではなくて、たくさんの色を使った多彩な作品です。しかし、そういう展示のしかたから、実は白を主体とした画面なのかもしれないと思えてきました。ということで、作品に当たっていきたいと思います。ここで展示されている作品は、モティーフを透明なアクリルの箱の中に入れて、そこに光が差し込んでくると、アクリルが光を反射して周囲の光景が映ったり、透明に透過したりする。それを撮影して、キャンバスに描き替えたというシリーズだそうです。モティーフとなっている壺には、透明なアクリルボックスをかぶせることで、壺を見ようとすると、アクリルボックスに光が反射したり、前後の像が写り込んだりする。アクリルボックスがあることで、その手前に前後左右の光や風景を中に閉じ込めるような感じになる。壺を見るには、光や写り込んだ風景を一度無視しないといけない。逆に、光の方が気になり始めると壺の存在はふっと消えていくような感覚になる、ということです。展覧会チラシで使われている作品も、そのひとつですね。その前に、「Untitled2016-03」という作品を見てみましょう。前のコーナーで見た白い地に青の模様が入った陶器をモティーフとしているところは同じです。しかし、背景が白一色ではなくなっています。陶器にかぶせた透明のアクリルボックスに映った風景が描かれているということなのでしょうが、陶器の置いてある白い台に陶器の姿が反射して映っていることもあって、画面のすべてが透き通って蜃気楼のように見えてきます。その中で、中央の陶器だけが透き通っていない。陶器のシリーズは狭い空間に展示されていたせいもあるかもしれません。その画面は白一色で完結していたというのか、空間の閉塞感に似た、ひろがりにかけるところが、たしかにあったと思います。それに対して、この作品は、白一色の背景に、ぼんやり映った風景が、重なり合って、それらが透き通っていることで、白一色で閉ざされていた、画面の向こう側が開けた印象がとてもあります。逆に、中心の陶器は、前のシリーズでは物質としての存在感が稀薄で透明な印象だったのが、この作品の壺は冷たい陶器の質感がはっきりしていてモノとしてきっちり描かれています。従って、前のシリーズとは方向性が正反対になっていると言えます。前のコーナーから、次の、このコーナーに移って、真っ先に目に入ってくるところで、この作品を置いたのは、前のコーナーの作品では正反対の方向に、変わっていることをシンボリックに示すものではないか、と深読みしたくなるのですが、そういう変化が、おそらくあると思います。それは、しかし、全体としては、これまでの方向をより極めようとするものであるような気がします。
 それまでの作品は描く対象をクッションだったり陶器だったりと、それを作家が見て描くという接し方ではなくて、そういう視点を持っていない人が、日頃の振る舞いのなかで、クッションや器をとくに意識することなく接している仕方を、そのまま描くということに置き換えようとしたらああなった、という作品だったと思います。それに対して、ここで展示されている様品は、モティーフにアクリルの透明な箱をかぶせるということをしています。そこで、いままでのように人がモティーフに接するという空間が遮断された。そこで、人がモティーフに接するという関係がなくなった。それによって、人とモティーフが対するのではなくて、同格になったと考えられます。つまり、描いているのはモティーフであり、同時に人であるというように。それは、背景が描かれているのはアクリルの箱の内側と外側の両方です。それが、鏡像のように映しあって何重にも重なって見えたりするのですが。接する方向は外に向かうのと内に向かう。その中心に陶器の壺がある。いわば、クラインの壺のような画面になっている。それを描こうとすれば、その中にいて、それを外から描くということをやっている。そういう作品に見えます。何か、言葉にすると、ややこしくなってしまうように印象ですが。
Iba201802  そして、チラシにも引用された「Untitled2018-02」という作品では、中心となっていた花瓶の物質的な存在感が稀薄になり、背景と同じように透明になってしまいました。ここでは、もはや人とモティーフを区別することもなくなってしまった状態。一般論的な言い方にすれば主語と目的語の区別がなくなって、同格になってしまった。だから、この画面に描かれている背景は中心の花瓶が見た(接した)背景でもある、ということになってしまっている。敢えて、見当外れの誹りを覚悟の上でいえば、この作品は触れるとか見るとか、人がモティーフに接することを描いていたそれまでの作品に対して、存在するということを描いている、と感じられます。

 

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