齋藤芽生とフローラの神殿(7)~8.「晒野団地聖母子堂」「晒野団地聖母子堂」
「晒野団地四畳半詣」に続いての団地シリーズということでしょうか、年季が入って黒い結露の染みのできた灰色の団地と、かつてヨーロッパ旅行で見た古い大聖堂の荘厳さが、あるとき齋藤の中で不思議と重なり合ったと説明されていました。
「晒野団地聖処女堂」という作品です。中央のウエディングドレスをまとった首なしマネキンの周囲を鳩が祝福するように飛ぶ、ウェディング・チャペルでしょうか。上部の桟は排水溝があいてその汚れがシミとなっています。そういう外側の枠が団地の一部でしょう。全体が木製のパネルに白亜地を施して画面にグレーを基調にして、青みがかった中央部分を除けば、グレーの濃淡だけの、きわめてストイックな色遣いです。硬質ですが、不思議と灰色の重く鈍い印象はないです。この人の作品の特徴ですが、汚れたところを描いているのに、汚いとか重苦しいといった印象の画面になっていないで、きれいな印象を決して失うことがないのです。
私の個人的な趣味からの発想なのですが、このような齋藤の作品の印象は、麻田浩の作品、例えば代表作といえる「原都市」に通じるところがあると思うのです。この作品は、「原都市」という題名にもかかわらず都市の風景が描かれているわけでもなく、石造りの建物の壁面を描いています。フェルメールの「小路」という作品を思い出してしまいましたが、その壁で画面がいっぱいになっているので、ここで描か、その平面を空間として見る者に提示する。そういうひとつの空間とか世界を全体として、まるごと画面で提示する。画面に世界全体を縮図のようにして再現したいという志向があったのかもしれません。それは、視点というよりは、画面一面に物質としての絵の具でも色でも存在させようとしていたことに対して、仕切りを設けようとした、そこには存在を枠にはめる、つま り、形相、かたちでしきっていこうということではないか。画面が枠取られて、それが麻田の世界風景という志向で、画面にひとつのコスモスのような完結した世界をつくっていこうとすることになっているのです。これに対して、齋藤の画面は、同じように平面的で、ひとつのトーンで画面をつくっていて、そこに秩序がありますが、麻田のように画面がひとつの世界に閉じ込められたという空間はなくて、どちらかというとインティメートな印象がします。画面の規模の大きさのちがいもあるのですが、それ以上に麻田の作品では、画面の事物に存在感があるのに対して、齋藤の画面の事物は浮遊しているようなのです。この作品でいえば、ウェディングドレスを着せられたマネキンや、奥のケーキ(祭壇?)もそうです。それが、枠のような団地の壁の断面が、かろうじて存在しているような重量感があって、それが存在を保っているように見える。つまり、心象風景の断片を現実の団地のなかに入れ込めて、ひとつの世界を作っている。いってみれば、少女マンガのコマのように現実の風景と少女の内面の区分がなくなってひとつの世界になっているが、それが次のコマに移ると普通の世界に戻っている。そういう感じなのです。その入り口が団地の窓だったり、ロビーだったりするのです。いってみれば、齋藤の作品とは、その境目、入り口を描き続けているのではないか、と思えてくる。
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