齋藤芽生とフローラの神殿(9)~10.「香星群アルデヒド」
齋藤自身の短編小説に対応した窓をモチーフにした作品だそうです。“「香星群」シリーズは、「窓枠の向こう側に開けた別の宇宙がある」という設定の、モノクロームによるシリーズです。それが、箱の中のミクロの小宇宙なのか、はたまた外界の夜空そのものなのかは明らかにはしていません。が、惑星と惑星が互いに距離を保ちながら個々に浮かんでいる様を人の愛と愛の間の不可侵の距離に見立てた、というような世界としても描かれています。”と齋藤が自身で、べつのところで述べていました。前の「ロビリンス」では、窓枠にあたる部分だけを描いて、その向こう側の世界は描かなかったのに対して、この作品では、逆に窓枠の部分があることはあっても、あまり目に入らず、その代わり、向こう側の事物が枠いっぱいに描かれて、前面に出ています。見る者は窓枠を忘れてしまいそうです。また、濃密なモノクロームの画面で、微細な線が復活するように、前の作品とは正反対です。
この作品の濃密な黒い画面は、そこに静物がポカンと浮かんでいるように細密に描かれているのは、長谷川潔の銅版画に似ていると、想像してしまいました。しかし、濃密度では長谷川に比べると、それほどではなくて平面的に見えてしまいます。おそらく、前に麻田浩と比べたときもそうでしたが、齋藤の作品は、麻田や長谷川のように描き方のスタイルが何を描くかと一致するようなタイプではなくて、齋藤は、作品を描くたびに、スタイルを変えて、というより択んでいるように思えます。それは、どこかで描いて いるものに対して、作者が留保しているような気がします。こんなことを述べると、齋藤を批判するように見えるかもしれませんが、麻田や長谷川は、おそらく自身が描いている対象について疑うということはない、というか、そんなことを考えこともないと思います。それに対して、齋藤の作品から感じられるのは、その疑いを彼女人がずっと抱いていて、全面的な確信を持てずにいて、どこかで留保するような姿勢があるようにおもえます。それは、例えば、そのものずばりを描けばいいのに、あえて窓枠を設けてみたり、わざとらしいほどリアルっぽく描いてみたりするというとこめ、そういうスタイルをとっかえひっかえして作品を制作しているところに、感じてしまうのです。
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