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2019年12月17日 (火)

齋藤芽生とフローラの神殿(4)~3.「徒花園」

Saitoadabana  「徒花図鑑」の一連の作品の3部作として軸装されたシリーズということで、展示も「徒花図鑑」と同じスペースに並べられていました。内容的には同じようですが、この3作は、縦長で掛け軸のようになっているので、区別はつきます。それと、この3部作は画面構成がシンメトリーで統一されていて、それも特徴的です。齋藤の作品というのは「そうではない」というオリジナリティーの性格があるということを前に述べましたが、それはまた、画面を際に、そのオリジナリティーを形にするために、形式を求めるということになると思います。オリジナルに表現するというのは難しいので、形式を借りて、そこで画面を成り立たせて、そこから形式に当てはまらない、収まり切れないところがオリジナリティーとして漏れ出てくる。つまり、形式にできない部分を表すために、あえて形式的にしている。まるで、前に述べた“余白の美”みたいですが、それが、この3部作の特徴であるシンメトリーという形式が貫かれているところでもある、と私には見えます。
Saitoknife  3部作のひとつ「剃刀撫子」という作品を見ていきましょう。“触れるものを皆傷つける刃の撫子、母の日のカーネーションに代わりこの花を子供からもらったら要注意”という作者のキャプションがつけられていました。抽象的な赤い壁の前でモノクロームでペン画のように細い線で描き込まれた、剃刀の葉を茂らせた(卓上に、その剃刀が落ち葉となって散り置かれている)切り花です。花の部分も、錐か何かの刃物で鋭角的な刺々しいものでできています。ペン画のようといいましたが、細い線が稠密に引かれていて、その細い線は、前の「毒花図鑑」で触れたような入りと抜きのある一本の線でなくて均一で無機的な細いを撚り合わせて一本の線のようにしているので、線の勢いとか身体性は感じられないけれど、やたら線が多い過密な感じがして、その線のあふれるような描画は、そのために陰影のコントラストが異様な印象を与えて、花のデザインが不気味なんですが、それ以上に線の過剰による陰影の異様さが不気味な雰囲気を作り出しています。これは、マンガの怪奇もの、典型的な例としては楳図かずおのマンガの世界を彷彿とさせるところがあると思います。作者が楳図の作品を直接Saitoknife2 知っているかどうかはわかりませんが、少なくとも、同じ時代と文化の共通するセンスを持っていると言えると思います。それは、もうひとつは、楳図のマンガがそうなのですが、日常のごく普通の生活に潜んでいる、怪奇や恐怖を物語にしているのと同じように、この作品では、現実の日常生活で使われる生活用品を、非日常的に組み合わせて異様なものを作っています(そういう手法は、シュルレアリスムにも通じていると思いますが、それは後で触れてみたいと思います)。ここでは、作者がまったくの想像によって、世界にないグロテスクな物体を創造しているわけではないのです。だからハリウッド映画のスプラッター・ホラーのようなグロテスクな怪物をデザインすることによる不気味とは違うのです。この作品には、日常と連続しているからこそ、例えば剃刀を毎日使っていたりすれば、そこに親近感とか、あるいは情緒的なものがあります。それが不気味さにつながっているのです。そこにはスプラッター・ホラーのような抽象的な恐怖ではなくて、個人の情緒とか情念とつながっている、個人的な不気味さという性格のものだと思います。
Saitoran  「電影蘭」という作品は、スプラッター・ホラーのような抽象的な雰囲気はありますが、蘭の花がもともとグロテスクな形態や色をしていて、それを茶の間の座布団の上に位置させたということと、色とりどりの電線コードをそこに多数つなげたという、具体物の意外な組み合わせで、恐怖のイメージを作り出していると思います。

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