無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 齋藤芽生とフローラの神殿(1) | トップページ | 齋藤芽生とフローラの神殿(3)~2.「徒花図鑑」 »

2019年12月15日 (日)

齋藤芽生とフローラの神殿(2)~第1章 花の迷宮─齋藤芽生とフローラの神殿 1.「毒花図鑑」

 齋藤の学生時代の作品です。習作から、作家として自立しようとしていた時期の作品と言えると思います。描かれた画面にはぎこちなさが残り、画面の中に文章が書かれていて、その言葉がいかにも思春期といえるような思いが先走って、語呂合わせや皮肉でそれを隠そうとするが隠し切れない稚拙さが露わになっていて、それが描かれた作品に反映しているような、ちょっと脇で見ていて恥ずかしくなるようなところがある作品です。ここからは、この人は純粋に視覚だけでイメージをつくるというよりは、言葉でイメージを構成する傾向があると伺えます(それは、後の作品でシュルレアリスムっぽい作品がでてきて、ああやっぱりと思いました)。その一方で、最初に述べた彼女の特徴である線が露骨なほど前面に出ていて、これは線を見る作品だという印象が強いです。
Saitosabaki  「ヒバナノケシ」という作品を見ると、程度の差はあれ作品のすべての線に入りと抜きが認められます。齋藤が学生時代に影響を受けたとして参考展示されている『フローラの神殿』の植物画と比べて見ると、例えば「アメリカン・カウスリップ」は、背景に植物が生えている環境が遠近法で描かれていて、丸まった葉には影が生まれ、植物全体に立体感があります。そういう奥行きとか面で囲われた立体という捉え方をされた描かれ方では、面が主体で線は面を描くための手段のようなもので、輪郭線などは実際の植物には存在しないので、できるだけ目立たないようになっています。このように明白に違いが分かると言うことは、齋藤が、それだけ『フローラの神殿』を意識して、彼女自身は、そうならないように意識したように思います。そうしないためには、というところで自身の線に自覚的になったと、私などは想像してしまいます。それと、齋藤自身の言葉で(この人は、作品や自身を語る言葉が過剰なほど多いのも特徴的です)、“私のとっての花、とはけっして自然の植物のことではない。古い食堂のメニューケースに飾られた折紙のユリや、祝忌の花輪などの「造花」が、好みの花である。生きた花の匂いも手ざわりも愛するが、「褪せて白に近い蛍光色になった造花の一輪挿し」が私に与える色めきは、それと全く別のものだとおもう。”と語っているような人工的な花であったらしい。『フローラの神殿』のような自然の花を観察して細かく正確に描写するのではなく、人工的なつくりものを図鑑の形を借りて描くということが、齋藤が『フローラの神殿』にはないものを追求したときに、自身の中から見出したものと言える、と私は想像します。なおも齋藤は語ります。“団地集会所のバレエ教室に通っていた幼い日、先生が次のレッスンに「造花を持ってきなさい」と言った。花を持って踊るのだそうだ。当時の家庭には必ず一つ二つホンコンフラワーがあった時代だ。しかしうちにはそれがないので、洗面所に挿してあるような着色カスミ草のドライフラワーを3本くらい持って行った。他の子がひらひらした極彩色の造花を持って踊るなか、自分のか細いドライフラワーが情けなく切なかった。あのときまぶたの中Saitoflora に揺らめいた、他人の造花の色彩を忘れられない。”とこんなような言葉で物語を語ってしまう。ふつう画家は、大っぴらに、こんなことをしゃべったりしないものだとおもっていました。それをしゃべってしまう。そこに言葉で物語を語る。これが事実かどうかは別にして、そこに造花のわざとらしいような極彩色に魅かれる彼女の屈折した心情を見る者に印象づける。そういうあざとさと、齋藤の描かれた作品の奥行きを欠いた陰影のない平面的なところとは相乗効果というのか、切り離せないようなつくりになっているものとして、示されているような気がします。それは、マンガのあり方に極めて近いように、私には思えます。ちなみに、「ヒバナノケシ」の画面右側に書かれているのは次のような言葉です。“花言葉:あなたの存在って、大して必要じゃない気がするの。実は、かみ砕くと口の中で炸裂し、人間の頭部を粉々にするほどの破壊力を持つ。実は普通一株に4~10個つき、その内の1粒だけがこのような破壊力を持つのであり、ほかの実は食用である。人口の多い国での家族削減、会社での人員削減など、要らなくなった員数をくじ感覚で抹殺するために使われる。最近ではロシアンルーレットのようなゲーム感覚で、若者が仲間うちで遊んでいる。”この内容はどうあれ、こういう書き方は、しかも、こういうのをいくつも書いて、それが集まって全体としてひとつのまとまりになるというのは、図鑑というより、ちょうどこの人が子供の頃に流行したビックリマンチョコのカードを思いだしてしまいます。一枚のカードには怪人キャラの説明があって、それらを集めていくとひとつの世界観が明らかになるというもの。しかも、私は、ここにある言葉のいかにもポーズをとっているような薄っぺらさにも、好感を覚えずにはいられません。
Saitosabaki_20191215190401  「サバキノ・カラバリーナ」という作品を見てみましょう。この人の多くの作品で基調となっている赤が橙色とのグラデーションで画面を明るくして、そこにアクセントとして紫を帯びた青の線が広がっていて赤を強調しています。画面左下には、次のような言葉が書かれています。“花言葉:僕、君が嘘をつかないと信じてるから…愛の試薬として使われる。ハート型の精子を自分の恋人に噛ませながら、自分に対する永遠の愛を誓わせる。種子には特殊成分ヴァージニアコニインがあり、一種の神経の麻痺毒である。特筆すべきは、この毒が、リラックスした普通の精神状態の時には効かないことである。緊張している神経を緊張したままにさせ、四肢は次第に感覚を失い、意識のハッキリしたまま呼吸筋の麻痺で死んでしまうのだ。つまり恋人が自分への愛を偽って誓っていたら、嘘をついていることによる緊張状態から麻痺を起こして死んでしまうのである。目の前で不実な恋人の死ぬのを見たら、諸君はどうすべきか?死になさい。愛の終わりこそが命の終わりなのである。”言葉づかいを別にすると、ここに書かれている内容は、少女趣味のエゴイスティックでおセンチな恋愛への憧れとおそれのようなものです。観念的、空想的と言い換えてもいいでしょうか。それは、この作品の画面の左手、上記の言葉が書かれている上のところに苞の解剖図のような図が描かれています。これは、性器の隠喩のように見えます。これが図鑑という形式にはまっていると言えるのでしょうか。それが、エロスというのを視覚的にストレートに見る者に起こさせるようなものを描くのではなく、性器のような図面のような描写を示すのです。これは、観念的といえると思いますが。というより、むしろ、この人の生身というよりは、頭の中で想像を膨らませたもの。あるいは生身のものをストレートに描くには躊躇するところがある、例えば、経験がないとか、そういうことにたいする衒いとか、それを屈折した処女趣味とこじつけてしまうのは、私の偏見かもしれませんが。この人の言葉の過剰というのが、言葉による観念先行というのでしょうか、そういうところが隠さずに露わになっている。そういう点では、稚拙なところが隠せない作品ではないかと思います。何か、一生懸命に毒々しくしようSaitoyamagishi としている健気さというのか、そういうのを見ていて微笑ましく感じられる作品ではないかと思います。これは、比較するのは適切ではないのかもしれませんが、例えば少女マンガ家の山岸涼子のようなアラベスクのような線の錯綜から表われてくる愛憎とかエロスのようなものの影響を感じるのですが、齋藤には、このような線で生々しい人を描くということがない(この人の作品には人の表情に代表されるような人間の内面の描写というのが全く見られません)ので、抽象化された性器の図面を代わりに提示するという手段を選択した。というより、この人の作品の性格から、選択せざるを得なかった。そう思えてきます。

 

« 齋藤芽生とフローラの神殿(1) | トップページ | 齋藤芽生とフローラの神殿(3)~2.「徒花図鑑」 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 齋藤芽生とフローラの神殿(1) | トップページ | 齋藤芽生とフローラの神殿(3)~2.「徒花図鑑」 »