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2019年12月16日 (月)

齋藤芽生とフローラの神殿(3)~2.「徒花図鑑」

Saitoshayou  「毒花図鑑」の15年後に制作されたシリーズです。両者とも植物図鑑のスタイルを採っているということで同じ系列と言えるでしょうか。あらためて、これらの作品をみていると、齋藤が影響を受けたという『フローラの神殿』のような植物を正確に写し取るということはやっていません。齋藤の作品と『フローラの神殿』との大きな違いはそこにあると思います。『フローラの神殿』には対象となっている植物への愛情のようなものがあって、その美しさを写し取ろうとして、執拗にこだわって描写していったのがエスカレートして、不気味なものとなってしまった。そういう過剰さが感じられます。これに対して、齋藤の作品は、形式を借りたというだけで、植物に対する愛情は感じられません。むしろ、齋藤の表現衝動は別のところにあって、それをうまく表現の形にできないでいたところに、『フローラの神殿』と出会って、ちょうどよい表現の形を得ることができた、というような感じがします。おそらく、齋藤は、線を引きたい、あるいは、言葉によって物語的に組み立てたイメージに形を与えたい、というところに不気味さ漂う細かく描きこまれた『フローラの神殿』に出会って、これだと思ったのではないか。そういう物語は、私が作品を見ての印象なので、事実とは必ずしも一致するとは限りません。そして、「徒花図鑑」は「毒花図鑑」に見られたぎこちなさがなくなって、洗練された、こなれたものとなっています。「毒花図鑑」にあった言葉による説明書きはなくなり、植物を中心とした場面のような画面を作っています。それだけ、植物の図像が独り立ちしたというか、言葉の説明がなくても、見る者に図像だけを見て想像してもらえるようになっている。齋藤の語るところによれば、徒花とは咲いても実を結ばずに散る花で、その生態は夢と現実の不均衡や人生のままならなさに重ね合わせられているといいます。そのため、花の姿は「毒花図鑑」が風刺的だったのに対して、花の姿を擬人化されているといいます。二十歳の学生の純粋に想像を描いていたのに比べて、15年間でそれなりに人生を経験し若いころのように単に想像に耽ることはできなくなったというアイロニーが混じっているということでしょうか。私には、そのように見えるところがあります。
 また、齋藤の洗練と申しましたが、それは彼女の特徴である線に言えることで、「毒花図鑑」では入りと抜きの線が縦横無尽といいますか、その線が作品を引っ張っている印象がありました。しかし、このシリーズで、齋藤は、入りと抜きの線ばかりでなく、より細く無機的で、ほとんど隠れてしまうような線など多様な線を使い分けでいます。例えば、「間男蔓」では入りと抜きの線を大胆に強調していますが、「斜陽葵」では極細の線が隠れるように使われています。
 「斜陽葵」という作品を見てみましょう。“表面的な明るさばかり強迫的に必要とする時代の風潮に嫌気を示すかのように、陰に向かって咲く「かげまわり」”と作者自身のコメントが付されていました。作品タイトルが漢字の葵なのに日陰のひまわりというのも何か変な気がしますが。作者がこのシリーズについて語っていたように、この花は、まるで窓辺で太陽に背を向けて、まるで失恋でもしたように不幸に沈む人の姿を想像させるような雰囲気で描かれています。この花の葉っぱは枯れ葉で、虫に喰われてボロボロになっています。茎は立ってはいますが、もはや青々として緑色ではなく、枯れた色で、曲がり気味です。こういう姿を人に置き換えると尾羽打ち枯らしたと言い表すことができるのでしょうSaitoyuna か。何もかも失ったという様子。うなだれるように、下を向いて咲く花は、褪せてしまったとはいえ色彩が残っています。万国旗か幟のように垂れ下がる花弁の一部は、まるで宴の後の虚ろな風景のように見えます。花はひまわりか牡丹のような大輪の花です。ここには原色が配されていますが、鮮やかさは感じられません。しかも、私には、この花の中心が機械のように見えて、譬えて言うとコイルを巻いたモーターのようで、垂れ下がっているのはコードのように見えてきます。それが、動かなくなって廃棄され、崩壊し始めている、そのように映ります。「毒花図鑑」に比べて、描写はより精緻になって、線はより細く、もはや輪郭を線ではっきりさせるのではなく、花全体が立体的に見えるように描かれています。「毒花図鑑」に見られなかった陰影が濃くあって、みの作品では陰が点描で細かくつけられています。これは、齋藤の技法の成熟もあるでしょうが、画像にのみ語らせるということと、細かい描写をさらに追求しているということだろうと思います。つまり、基本線は、「毒花図鑑」から「徒花図鑑」まで一貫している。
 「湯女蓮」という作品です。“湖水や公園の池よりも、風呂に浸かることを喜ぶ蓮の花、西方浄土の神秘よりも、銭湯富士の大衆性を匂わせる青い色”という作者のキャプチャがつけられていますが、この原色の青に赤い縁取りのされた花弁は鮮やかですが、どこか毒々しい感じがします。私は、この蓮を見ていて、チベット仏教の絵画、タントラと呼ばれているのですが、その花を思い出しました。その花のパターンがよく似ているのです。タントラは細密に描かれ、鮮やかな原色が印象的なのですが、仏教画の宗教性というよりは、生々しいエロティシズムを感じさせるところがある不思議な絵画です。もっとも齋藤の作品は、花そのものについては、さらに細密に描いているし、色彩は毒々しいところがある。しかし、何となく、花の形の艶めかしさというのでしょうか、それがタントラの持っているエロティシズムから持ってこられたような感じがする。あるいは、この作品では蓮の花だけをとってみると、画面の位置づけとは無関係であるかのように正面の構図でシンメトリーに描かれています。これもタントラを思い出させた所以でもあるのですが、そSaitotantra ういう形式的なところ、ときにシンメトリーは、この後の齋藤の作品では頻繁に見られるようになっていきます。構図のことは、後で触れたいと思いますが、この作品がタントラを思い起こさせたり、毒花図鑑の作品が少女マンガを連想させられたりと、この後もそうなのですが、齋藤の作品は引用というのではないのですが、どこか、何かしら誰かしらの作品を思い起こさせるところがあります。私は、それは齋藤の作品の特徴からきているのではないかと思います。私は、齋藤の作品の感想については、妄想に近い偏った独断を連ねていますが、そういう語りを促すようなところがあると弁解しておいて、騙り始めます。齋藤の絵画というのは、作者のオリジナリティーがゼロから独創的に創り出されるというものではなくて、既存の作品に対して、「これではない」とか「違う」というような、その先行する作品に愛着とかレスペクトはあるのですが、しかし、それに全面的に同調はできなくて、そこに微妙な違和感とか疎外感のようなものがあって、それで、そうでないというズレで作品がつくられていっている。そんな感じがします。日本画で“余白の美”などという言われ方をしますが、余白というSaitotantra2 のは、それ自体で成立しているわけではなくて、余白でない部分が作品を成り立たせているわけです。本来なら、余白なんてなくても作品は成立する。あえていえば、余白は余白でない部分に寄りかかっているような存在です。それが、余白でない部分を背景のようにして作品の前面に出てしまった。そういう、あえて言えば自立していないところ、オリジナルな作品世界としては、そういうところが齋藤の作品にはあると思います。しかし、それは決して批判しているわけではなく、そうでなければ表現できない世界があるということなのです。独創的で独立したオリジナリティーというのは、良くも悪くも太陽のように強烈で、誰が見ても分かる。しかし、齋藤のような、言ってみれば「そうでない」オリジナリティーは、太陽の陰のような存在で、なかなか目につきにくい、しかし、そうでなければ存在できない陰のような性質、そういうところがあると思います。いってみれば、とても傷つきやすく繊細で、それ自体ではなかなか生き永らえにくそうなものを、何とかして生き残ろうしている、そういうとろがあるように、私には思います。そのひとつの方法が、アイロニーという姿勢なのではないか。

 

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