齋藤芽生とフローラの神殿(8)~9.「ロビリンス」
「晒野団地四畳半詣」や「晒野団地聖母子堂」「晒野団地聖母子堂」では団地の窓を枠にしていましたが、マンションの玄関ロビーを枠とした作品です。“実在するビルに取材した本作は、筆跡の残らないフラットな面と細密に描写された部分が意識的に対比されており、無機的な質感を強調するように描かれている。硬質な床材と壁の表面が反射しあってシンメトリーを形作り、冷ややかな迷宮の入り口に立つような感覚に襲われる”と解説されていました。 「ロゼット・ネビュラ・パレス」という作品は、まさに上の解説が当てはまるような作品です。まるで、新築マンションのパンフレットの完成予想図のような描き方です。解説にあるように、筆触が抑えられて、それまでの作品にあった線がこの作品では見えなくなり、写真のようなリアルっぽい画面で、しかも、シンメトリーが強調されているので、全体に無機的な印象が強いです。そして、それまでの作品にあった、中央の題材が空間になってしまい、これが大きな変化で、無機的な印象をさらに強めています。もしかしたら、実は、このロビーの空間こそが、それまでの植物や窓の中の異世界の真の姿なのではないか。つまり、不気味な植物も祭壇の向こうのような異世界も、実体のない作者にとって見えているというだけで、実は空っぽなのではないか。さきに麻田浩の作品と比べてみましたが、麻田は画面に世界を創ろうとしましたが、齋藤は世界を創るのではなく見ようとしたといえます。つまり、そこに映ってい る対象は存在していることは関係なく、見えるだけでよかった。存在することはどうでもよかった。だから、存在しなくてもよかった。それで、存在しない、空っぽである画面を描いてみたというのが、この作品ではないかと思います。また、この描き方は写真のようだと述べましたが、リアルさは全くありません。リアルっぽいのですが、けっしてリアルではない。そこに偽物のリアルさというのでしょうか。存在感のない薄っぺらく表面的で、リアルをなぞっている。しかも、それを隠すのではなく、あからさまに、なぞっていることを強調するかのように描いている。それは、私にはシュルレアリスムの画家たちの似非写実的な描き方、例えば、ダリやルネマグリットの作品の描き方に通じているように見えるのです。それは、画面を契機として、見る者に想像を促すように、つまり、画面は見る者の想像を促す触媒のような位置づけなのでしょうか。そんな印象の作品になっています。
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