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2019年12月14日 (土)

齋藤芽生とフローラの神殿(1)

Saitopos  2019年11月14日に目黒区美術館で見てきた「齋藤芽生とフローラの神殿」の感想です。
 目黒区美術館は、私の住処や職場のルートから離れた位置関係にあり、しかも区立のため午後5時には閉館してしまうので、ついでに寄るということができない。この美術館は、時々、興味をそそられる企画をすることがあるのだけれど、そういう事情で、行きたいと思いながら、なかなか行くことができない美術館のひとつとして、私のなかにはある。それで、今回は、ちょうどよい機会だと、しかも、企画展もおもしろそうだったので、立ち寄ることにした。
 最初に齋藤芽生という作家のことは知らないので、展覧会の主催者あいさつで簡単な紹介と、どういうものとして作品を見てもらいたいかを説明されているので引用します。“目黒区美術館では、これまで「線の迷宮<ラビリンス>」と題し、線の魅力と可能性に迫る企画を、「細密版画の魅力」展(2002年)、「鉛筆と黒鉛の旋律」展(2007年)とシリーズで展開し、好評を得てきました。第3回目となる本展では、失われゆく情感や風景を鮮烈な筆致で描く画家齋藤芽生の絵画世界と、19世紀植物図鑑の名作《フローラの神殿》を紹介します。齋藤は、高度経済成長後の東京郊外で生まれ育ち、やがて東京藝術大学の油絵科に進みました。しかしながら、美術と文学双方の表現へ興味を持ち、揺れ動いていた齋藤が新鮮なビジョンのひとつを得たのは、博物学でした。そして、言葉と複数の絵からなる博物図鑑として、ものごとの体系を表現するアイディアによって、「表立って語られることのないひそやかな人生の縮図」が描き出されていきます。制作初期に、図鑑形式と細密な線描の集積によって表現されたのは、花に託された思春期の真理でした。やがて幼少期を過ごした箱型の団地の窓を扱う一連のシリーズが始まり、この窓枠の奥には人々の気配が描かれました。そして近年では、図鑑や窓といった形式から脱し、日本各地への旅を重ねながら、イメージを収集した現実の記録と過去の記憶がモチーフとなっています。あたかもロードムービーの一場面を見るかのように、今も街道沿いに遍在する歓楽施設の跡地などが再構築されています。同時に、作家にも影響を与えたという植物図鑑《フローラの神殿》を一堂に展示します。稀少な花々の壮麗な姿とともに、他に類を見ない詩的な背景が描かれ、19世紀の世界へのまなざしをみることができます。本展では、齋藤芽生作品約100点とともに《フローラの神殿》全30点を展覧し、「図鑑」のように複数の絵画と言葉で社会を描く現代作家の魅力に迫ります。”
 このあいさつを読むと、この展覧会は絵を描く要素としての線に注目したシリーズの一環として企画されたものだということがわかります。したがって、齋藤芽生という作家の線にまず注目して、この展示が企画されたということが想像できます。そういう視点で、右上の展覧会チラSaitoline シに使われている「間男蔓」という作品を見てみましょう。画面中央の花から上に2本の髭のような赤い蔓が伸びていますが、その蔓には無数の細い毛が生えています。その一本一本の毛を描く線には、ペン画でよく使われる描線の入りと抜きが明確に見られます。入りと抜きとは何か、参考のためにペン画で線に入りと抜きがある場合とない場合を並べてみました。上が、入りと抜きのない線で、下がある線です。何となく、下の方がスッキリしていて、目に生命感があるように見えませんか。これは、線に勢いの感じを与えることで、その線で描かれたものをはっきりと生きいきとさせる効果がうまれるものです。ペン画のひとつとも言えるマンガでは、この入りと抜きの線でキャラを生きいきとした人物に描いたり、キャラの動きにダイナミックな躍動感を与えたり、時には心理的な陰影を加えたりするのに活用します(後で具体的にみますが、齋藤にはマンガの影響が少なくないように見えます)。入りと抜きとは、よく言ったもので、簡単に言うと、ペンで線を引くときに、ペン先を紙につけるとき、つまり線の引き始めはスッと力を抜いてスムーズに接地して、線を弾くに従って徐々に力をいれて、線の終わり、つまり、ペン先を紙から離す際には、抜くようにスッと放すように線を引くのです。こうすると、引かれた線には勢いがあるように見えます。書道でも運筆といって、線を引くときに線のはじめから終わりまで同じように引くのではなく、力のSaitoline2 入れ方にメリハリをつけるのです。線を引き始めるときに息を止めて、後は留めた息を吐き出すようにして、その吐く息の力を込めて線を一気に引く、そうすると線に生気が生まれる。それを見る人は力の込もったとか、気の流れがあるというように見るのです。齋藤の「間男蔓」には、そういう線が無数に引かれていて、空中に浮いているように見えるアザミの花のようなものから無数に生えている黒い線にも入りと抜きがあります。このような線の入りと抜きというのは伝統的な西洋絵画の油絵では、むしろ筆触を出さないようにされていたのではないかと思います。近代絵画でマチエールという手法で筆触を意図的に画面に残す場合も、絵の具を盛ってその物質感を利用するもので、この作品のような線の勢いを活用するというは、あまりなかったように思います。とくに、「間男蔓」では、その線が赤い色とあいまって、画面全体に艶めかしさと生々しい雰囲気を作り出しています。私も、この人の大きな特徴は、この人の線にあると思います。齋藤自身、“大学時代、先生に「刺繍のように手芸的に細かいだけの描写ではつまらないよ」と言われ、ハッとしたことがある。糸と針に例えると、確かに自分は整然とした縫い目を欲しているのではない。「縺れた糸」の細部に魅かれているのだ。縺れているからこそ、それを明瞭に描く。絵においても言葉においても共通する理想だった。”と語った言葉が作品とともにありました。それが初期作品に顕著で、作品年代が進むにつれて、その線の入りと抜きが見られなくなって、それに伴って線が無機的になる一方で微細さがエスカレートしていって、それに伴い描く対象が変化していったように見えます。では、具体的に作品を見ていきましょう。

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