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2019年12月19日 (木)

齋藤芽生とフローラの神殿(6)~第2章 窓の光景 7.「晒野団地四畳半詣」

 目黒区美術館の展示室は、2階に上がる階段を真ん中をロビーにして、その左右に展示室が配置されています。それで、展示を前半と後半に分けられるようになっています。この展覧会は、これまでの第1章が、階段を上がって右側の展示室で前半、そして、ここから左側の展示室に移って、後半の展示ということになります。ここからは、植物の題材からは離れます。1950年代後半から始まる高度経済成長期の日本に林立した箱型の団地群。私は1960年生まれで、東京郊外に育ったので、そういう団地は見慣れた風景で、ノスタルジーを感じさせるものと言えなくもありません。少なくとも、日本人の原風景などと宣伝されている里山の風景なんぞより、団地の方が郷愁を誘われる。ただし、里山のような権威化されているわけではないので、そこに一抹の屈折が混入することになります。齋藤と似たような風景を見ていたかもしれません。次のような齋藤の言葉がキャプションとして付されていました。“図鑑やカタログの様式が好きなことの根には、何かを蒐集したい志向があるものだ、とは気づいていた。様々な柄の包装紙、同じサイズの本…同じ型の色違いが手元に集合することにときめきを覚える。整然と羅列されたいくつもの同じ型に、一つずつ違う世界観がそれぞれ詰まっている。そういうことへの愛着を生んだのは、故郷の東京郊外、丘の上の団地の風景だったのではないかと、ある時から考えるようになった。20代の半ば、新たに「団地の窓」をモチーフとする新シリーズを開始した。白い外壁に穿たれる無数の同型の窓穴。いけばなや花輪など、これまでのモチーフには、華やかな装飾性の入り込む余地があった。が、生活感と切り離せない「団地の窓」のモチーフによって、人の営みの翳りをよりリアルに抽出することが新たな目的となった。”
Saitoubasute 例えば、最初に展示されていた「姥捨小町鉄の浮橋」という作品を見てみましょう。
 「図鑑」のシリーズが植物を題材としていたに対して、今度は団地という、言ってみれば規格の工業製品であるため、寸分たがわぬ同じものが大量にあるということ、したがって画面の構成が図鑑の場合には違っていたのが、シリーズの作品が同じパターンで統一されています。作者の言葉にある“整然と羅列されたいくつもの同じ型に、一つずつ違う世界観がそれぞれ詰まっている。”が植物ではではできなかったのが、ここでは実現したということでしょうか。しかし、おそらく、齋藤は、最初から、そのような意図で、このシリーズを始めたのではなくて、むしろ、このシリーズを始めてから、そのことに気づいたのではないかと思います。途中でそのことに気づき、そして自覚して制作するようになったように思います。そのパターンとしても、より形式的になっているのが顕著です。それは、齋藤自身の次のような言葉にも表れています。“図鑑の形式に魅かれる理由を、時に故郷の団地の風景になぞらえてきた。同じ型の連続、その一つ一つの中身の差異、比べれば各々の特性はわかるがどれも集合体の部分でしかない。そこに団地の窓の並ぶ記憶が重なった、というように。”団地という規格品の中の窓という同一規格をシリーズの作品に共通して、まるで外枠のように設定し、その窓の内側を中身としてSaitoubasute2 差異をもたせる。それは、見る者にとっては、まるで、窓枠をゲートとしてその中、つまり、ゲートの先、それは向こう側に異世界が覗いていて、それぞれの作品が、同じゲートからそれぞれが異なる世界に向けて開けているように見えてくるのです。とくに、この作品で、特徴的な表れが画面のシンメトリーな構成です。その形式的なところが、この作品では、どこか儀式めいた印象を強く残します。手前の階段もあって祭壇のように見えてきます。階段の両側から上に伸びている2本の柱の上部で水平に横木を渡しているのは、まるで鳥居のように見えます。さらに、その横木の中央にハンガーを重ね合わせて五芒星のように見せて、その星型の中央には鹿の頭部が置かれている。それは悪魔崇拝のシンボルにそっくりです。その鳥居の下に窓の奥にむけて赤く塗られた鉄製の橋が神社の太鼓橋のような形で、作品タイトルの「鉄の浮橋」で、その先の暗闇に牡鹿が向かい合っているのは冥界、とくに地獄を強く想像させます。
Saitonight  「夜薫る女心の寝殿」という作品は、神社の社殿正面をおもわせます。しめ縄が垂れ下がり、その奥には神社幕がかけられ、中央で絞られて房がふたつ下がっている。これもシンメトリーです。しかし、そういう神社のように設定されている、各パーツが、しめ縄は下着をつなぎ合わせたものだし、神社幕はシーツで、ふたつの房は下着のスリップのようです。そして、しめ縄の下方、つまり神社で祀られるべきところには、寝乱れたベッドが鎮座しています。そういう、日常的な生活の匂いのするアイテムを神聖なつくりのなかに闖入させていて、そこに非現実な世界と何らかのシンボリックな意味づけを見る者に想像させるようになっています。ただし、その意味付けは言葉によって組み立てられた感じで、直喩に近いシンプルなもので、分かり易いものになっていると思います。この一見。メッセージ性がありそうだという思わせぶりが、この人の作品には共通してあって、それが思わせぶり以上になっていなくて、その浅薄さにとどめているところで、通俗性をもたせているところに、この人の作品を親しみやすくしていると思います。この作品でも、団地のような規格化された毎日の生活で、例えば女性の本能的な欲望を抑圧されてしまっている、というメッセージに安易に結びつくのでしょうが、そうすると、この作品は一気に分かり易くなって、共感をもって見ることができるようになることができる。そういう表層をもっている。ただし、それじゃあ、その奥に深層があるかというと、そうでもないのでしょうが。しかし、私には、作者は、そんな表層のメッセージを真剣に伝えようとはしていないで、むしろ、それに対して斜に構えているように見えます。それは、あまりにシンボルがあからさまだからで、しかも、各パーツが分かり易く薄っぺらく描かれていると思えるからです。
Saitotree  「花咲爺の色褪せぬ神木」という作品では、シンメトリーは崩れています。タイトルの「神木」であれば、祀る対象ですが。ここには、これまで見てきた作品のような神社を模したような儀式めいたところは、却って薄くなっています。しかし、窓の奥の暗いところで、色とりどりの花を咲かせている。一本の木で違う種類の花を咲かせることなんかあり得ませんし、ここで咲いている花は樹木の花ではなく、非現実です。しかし、それぞれの花で微妙に異なる赤を使い分けていて、その細かい花の小さい花びらひとつひとつを微細に描き込んでいるところが、その暗い中で目立たないように隠すようになっているところが、なにか異常な気がして、その細かさと、それをあえて隠すところに、尋常でないところを感じる作品です。このシリーズで共通しているのですが、画面の儀式てきなところは神社だったり祭壇だったりといった聖の要素があるのに対して、そのパーツの題材には下着とか生活用品をあてがったりして、むしろ俗の要素を用いている。そこに聖と俗の極端を同居させて、しかも、タイトルなどでシンボライズしているのは日常生活の身近なもの、それを皮肉をこめて取り扱っている。しかも、その性格がとても下世話で人間臭い。それにも関わらず、画面に人の姿はない。人の匂いがするものや生々しい人の痕跡はふんだんに画面にあるのに、肝心の人の姿はまったく登場させない。それは意図的に描かないのか、描けないから、人を登場させない画面をつくっているのか、そのへんは分かりません。

 

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