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2020年1月 8日 (水)

中林忠良銅版画展(5)~D.逍遥と拾い物1974~

 1975年に出版社の企画による金子光晴の詩と中林の版画作品の組み合わせによってつくられた『大腐爛頌』という詩画集は、はからずも中林作品を読み解く上での重要なカギとなっていると説明されています。そこに収められた光晴の詩に次のような一節があるといいます。
   すべて、腐爛(くさ)らないものはない!
   谿(たに)のかげ、森の窪地、うちしめった納屋の片すみに、去年の晴衣(モード)はすたれてゆく。
   骨々とした針の杪(こずえ)を、饑(う)えた鴉(からす)が、一丈もある翼を落してわたる。
 111111_20200108203201 この詩を読んだ時、中林は“それまで地球全体の状況がひとつの終局に向かって動いているという気持ちをずっといだきつづけていた”と、その詩から受けるビジョンと、気持ちがピタリと一致したと言います。それ以来、この“すべて腐らないものはない”という世界観が、すべての中林の作品のテーマとして背景に流れているということです。でも、この詩画集の中林の作品が、それに見合うような腐っていくような様相を明確に表しているか。私には、そうは見えません。銅版画の腐食の手法を駆使して制作するのと、金子光晴の腐食に光を当てた詩句とで、コンセプトが共通していると思ったということだけのように私には、思えます。というのも、中林の作品には、腐食が世界観にまで徹底されているとは見えない。感覚的に、世界が腐っていくようなものは見えてこないと思います。というのも、画面の形の輪郭はしっかりしていて崩れることは決してないからです。だから“すべて腐らないものはない”というように、腐っていくということは爛れたように崩壊していくことです。そういう場面が描かれているようには、私には見えません。そういう深読みをするよりは、表層で腐食した銅板の効果を愛でている、遊戯的な要素、それがこの人の作品の特徴ではないかと思います。

 

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