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2020年1月 6日 (月)

中林忠良銅版画展(3)~B.一里塚 青春の軌跡1970~1975

Nakabayashiwhiteroom  まずは、『白い部屋』という連作から「薄明」という作品。室内に立つ、裸婦の後姿が写真のネガフィルムのような白黒の反転した図像。とくに、その反転した白黒のグラデーションが特に強調されるようになっています。そこでは裸婦の形態とか、身体の柔らかな質感とかいったようなことは、捨て去られるように、残ったものがグラデーションで、しかも反転させられているので、人体の立体的な存在感も捨て去られたようになっている。全体として、背中を向けた裸婦であることが。かろうじてわかるが、そうであることを表現する、美しい作品とする要素を悉く捨て去ったと言えます。画面では、裸婦の手前のテーブルとそこに乗っているバラの花も同じです。あるいは、背景の壁に絵画かけられていて、それを裸婦が見ているような位置関係にあります。それもネガの状態にあって、分かりにくいのですが、よく見ると、おそらくスペイン・バロックの巨匠ベラスケスのNakabayashibera 「ラス・メニーナス」のお姫様を描いた部分ではないかと思います。この作品は、鏡を通して描かれた観るものと描くものの視点を外部に誘う作品で、この絵画は反転した世界ということになっていますが、それをこの作品では、白黒を反転させて画面の中に含ませています。しかも、作品の画面の中で、この挿入された絵画は、この画面から別の世界へ開かれた窓のような位置関係にあります。ということで、この作品には何重か入れ子構造になっています。それが背景にあって、手前の裸婦やバラの花も、そういう構造に、挿入されたものという、それがネガの画面とされることで、ひとつの画面に収まってしまっている。そこに、入れ子構造であれば、きちっと掲載された構築性の高さによる緊張感というか几帳面な感じがするのですが、そういうところはなくて成り立っているのは、その画面と、形がぼんやりしているところにあると思います。
Nakabayashilandscape  「囚われる風景Ⅰ」という連作真1枚です。“彼の直面する社会の映像のいくつかが転写によって取り込まれながら、時代の閉塞を象徴する箱によって心理的な深まりを持つ光景へと置き換えられる〈囚われる風景〉のシリーズである。様々な銅版画技法が自覚的に操られて、あたかもコラージュのように画面に様々な要素を持ち込んでいる。”ということで、『白い部屋』がコラージュのような手法で構造化された画面に当て込んで作られていたのにたいして、ここでは画面に立方体を設け、そこに転写した事物をいれて、いわば囚われたような様相を作っている。『白い部屋』が室内という状況が分かるものだったのに対して、この作品では、背景が曖昧になって、というよりはシュルレアリスムの不条理な幻想世界のような、模様になっています。ここで言えるのは、『白い部屋』よりもいっそう転写されている個々の事物は、その存在とか形態とかいった画面での意味は、なくなっていて、見る者は、それが何であるか分からなくなっていKomaiillusion る。おそらく、分からなくてもいいのでしょう。事物が細切れのようにされているので、画面に、何か転写されたものがあって、それが画面にあてはめられているということが分かればよいということになっている。そういうところで作品が成立している。そういう、画面で意味をはく奪すること、結果としてそうなっているのでしょうが。そういうところが、中林という人の抽象的な作品の特徴のような気がします。これが、例えば、同じ銅版画家の駒井哲郎の作品と比べてみると、駒井の作品も抽象的なのですが、それは意図的なもので、おそらく、駒井のイメージを画面に具体化するとそうなったというもので、そこに駒井の意図、つまり画面の意味があって、それを見る者が受け取れるようになっています。これに対して、中林の作品では、もともと彼の中にイメージとか意図というのは、できていないように思います。彼の場合は、作品の画面を制作しているうちに、偶然できたもの、でもともとの意味はない。そう見えます。
Nakabayashidays  「囚われる日々Ⅰ」という「囚われる風景」に続いて制作された連作の1枚です。「囚われる風景」と同じような手法でコラージュのような転写が行われていますが、むしろ、目を引かれるのは、その背景となっている縞模様が波打ってうねる様が画面を支配しているような画面の下半分と上半分が空白になっている対照です。というより、下半分の縞模様のうねりです。ただ、これまでの作品もそうですが、作品を見る人で、画面に何かしらの意味づけをしたい人は、そこから何らかの意味づけを自分勝手にするのには、やりやすいような要素を配置もしてあります。例えば、コラージュのように挿入されたものだとか、その挿入されたものどうしの関連性とか位置関係なんかで、様々な意味づけが可能なようになっていると思います。しかし、私には、その挿入されたものが、具体的に何であるか深く詮索する気にならなかったので、アトランダムにある程度にしか見えませんでした。
 フィルム写真というのは、もともとフィルムに感光させて表面に化学変化を起こさせるものです。それと同じようなことを、銅板の表面に写真の転写をして、銅板の表面が薬剤の腐食による変化で行われる。その際に写真とは違って、ちゃんと転写されないで、元の画像が変質して転写される、その効果の面白さに気が付いて、その効果が最大限になるようなデザインとか素材の選択をした結果連作のような作品集となった。それが、ここで展示されている作品ではないかと思います。

 

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