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2020年2月 7日 (金)

小林ドンゲ展─ファム・ファタル(妖婦)(5)

Dongebeni  『エドガー・アラン・ポーに捧ぐ』という1972年の銅版画集です。“ドンゲにおけるポーとは、自己投影の鏡であり、世界認識の表象にほかならない。ドンゲのデリケートな多感な線は、ポーのように、世界の崩壊を鋭く感受した稀有な人間によって、はじめて描きうるものであり、その透明な、薄明な、あるいは暗黒な空虚空間は、同じく存在の非存在を深く認識したものによってのみ、生み出しうるものだろう。世界と存在の本質について、なにかを見てしまった人間は、もはや自分の認識した蔵を忠実に伝達するだけであり、絵を描くことに、いささかも説明を加える必要はない。ドンゲの版的イメージは、その結果として、驚くべきほど確定的であり、見るものにけっして説明をもとめず、ある種の確証を提示するだけである。すべてが、存在がまさしくそのようなものとしてあるかのような確かさをもって、顕現する。一見して、極度に静謐で、無言な画面だが、それはなにものにも置きかえられない強固なリアリティを以って迫ってくる。”と語っている人もいます。
Munchself  その中から「ベニレス」という作品を見てみましょう。数あるポーの作品の中から「ベニレス」を選んで作品にしたというのが、上の言葉のようなポーとの親近性を示しているのでしょう。「ベニレス」という物語は、ポーの物語の中でも最も猟奇的なものではないかと思います。ベニレスとは女性の名前で、主人公と結婚することになる美しい女性です。しかし、彼女は病気に罹って様相を一変させます。まもなく、彼女は亡くなってしまいますが、主人公は彼女の歯に執着し、墓をあばき死体から歯を抜き取ろうとします。しかし、彼女は死んでいなかった。そういう話です。小林の作品で描かれているのは、その異常な性向の主人公なのか、ベニレスなのか分かりませんが、どっちとも取れます。暗い部屋に顔だけが浮かび上がるのは、棺桶の隠喩か、タブーを犯す主人公の暗示しているのか、いずれにしても、病的な顔です。窓から差し込む光だけの真っ暗な室内で白い顔だけが浮かび上がり、その顔を小林独特の鋭い線でくっきりと描いているところが、暗闇と対照されて異常性を際立たせていると思います。
 ムンクの自画像で、暗闇に顔が浮いているように見えるものがあったと思います。
Dongemadeline  ポーの作品の中で怪奇と言えば「アッシャー家の崩壊」です。小林は、とくに「アッシャー家の崩壊」については2作品を制作しています。ここではそのうちのひとつ「マデライン姫」を見てみましょう。ほかの作品のように一本の線を一気に引くのではなくて、極細の線を何本も引いて重ねていて、線や面を作り出している。まるで鉛筆で描いたスケッチのようです。それは。物語の女性が病的であることも要因していますが、おそらく小林の作品の中でも、平面的な線画からもっとも遠ざかって、立体的な面を描く方向に寄った作品ではないかと思います。それゆえに、衰弱した人の身体的な姿が、生々しく表れていて、小林のほかの作品のシンボリックなイメージから遠い作品だと思います。私は、今回の展示の中で、この作品が、一番病的で、ネガティブな印象を持ちました。これ以外にも小林は病的なものを描いていますが、それらは生々しさはなくて、比喩的あるいはシンボリックで、ネガティブに感じをおぼえさせることがないのです。そのような突き放した感じは、この作品にはありません。「ベニレス」が生々しさDongekiss を欠いたシンボリックな極致だったので、この版画集は両極ともいえる全く傾向の異なる作品が同居していると言えます。それは、小林が挑戦的な姿勢でいたことの表われではないかと思います。
 『雨月物語』にせよ『ポーに捧ぐ』にせよ、すべての作品を紹介したいのですが、あとひとつ「ヴァンパイア」で打Dongevample ち止めにしようと思います。この抱擁の構図は、クリムトそのものではないでしょうか。そして、抱擁しているように見える二人の描き方は「ベニレス」とも「マデライン姫」とも違う、マンガのような平面的な線画です。それだけに、吸血鬼の恐怖とか、裸体のエロチシズムといった生々しい要素は全くなくて、その代わりに、二人の身体の輪郭を描く線の滑らかな曲線が艶めかしい。初期の作品のような、一本の線の中で変化が大きい、劇的な要素は抑えられていますが、その代わりに伸びやかさがあって、勢いを感じさせ、その線が身体の輪郭をなぞるように、くねるように、柔らかな曲線を描いていくのです。したがって、構図はクリムトそっくりですが、クリムトの人物が金箔などの装飾に埋もれてしまうのに対して、小林の作品はむき出しで、輪郭がくっきりしている。
Dongecat2  「女と猫」という1975年の作品。展覧会のチラシでは別の作品が使われていましたが、ポスターには使われていました。小林ドンゲという作家を代表する作品であるといって間違いはないと思います。初期の線による平面的な作品と、渡仏によって広がった伝統的な西洋絵画の影響が、この作品で見事に融合して、完成されたスタイルになっていると思います。この作品の女性のポーズや画面の構成は、レオナルド・ダ=ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」に感化されたと指摘する人もいるということです。たしかに、全体として安定して落ち着いた印象が強いです。『雨月物語』や『ポーに捧ぐ』の病的な要素か、気にすれば残滓はあるものの、ほとんど感じられません。女の顔の全体は、尖ったような顎や切れ長の目とか、これまで小林の顔のパターンです。以前の作品では、日本画やマンガのような平面的なパターンのようでした。しかし、この作品では、そのパターンを踏みながらも、Dongecat 決して平面的な印象を受けません。それは、ひとつには生き生きとした線が、これまでのように突出して自己主張していないこと。また、控えめにですが、その線を繊細に重ねて、ポイントで陰影を作っていること。そして、目に生命感があって、それが口が微妙に歪むことで表情を作っているのと連動していること、それらのことで、この作品の女性は、平面的な描かれた顔から、人の顔になっていると思います。それは、以前の作品が足りないというのではなくて、日本画がそうであるように、そういうものとして画面全体が構成され、それで成立していたというものです。あえて言えば、シンボリックで幻想的(耽美)な画面には、生々しい人間的な要素は邪魔といってもよかった。しかし、この作品は、そういう画面でも、人物が人の顔になっても成立するようになった、ということです。つまり、人がいることと幻想的な耽美が共存することができたということです。細部に目を転じると、女性の前髪のカールした部分の髪の毛のフワッとした柔らかな表現。これを線で描いているのです。いったい、どうやったら、こんなことが可能になるのか。これは、女性が抱いている猫の毛も、髪の毛と質は違いますが、やはりフワッと柔らかい。その柔らかさだけを見ていてもいい作品です。

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